自由民権運動の壮士たち 第20回 『児玉仲児(こだま ちゅうじ)と浜口悟陵(はまぐち ごりょう) (和歌山県)』


【 児玉仲児 (Wikipediaより) 】

 

明治時代となって新政府は、それまでは藩ごとにバラバラだった税制を、全国的に統一されたものに改革しようとします。これが、地租改正と言われる一大事業でした

地租改正の作業は、おおむね以下のような手順で進められました。①まず土地の測量を行ない、土地の面積と所有者を確定する。②様々な条件を考えて土地の等級を決定する。③土地の面積と等級から収穫量を予想する。④予想された収穫量と相場の平均をかけ算して収穫高(金額)に換算する。⑤その収穫高から必要経費を差し引くなどして地価を算出する。そして、算出された地価の3%を地租として、土地の所有者が政府に納めることとしたのでした。

こうした地租改正に対して、手順②の土地の等級の決め方のおかしさや、算出された地価が高すぎるといった点などについて、農民の側から異議申し立てをする動きが全国各地で生まれました。そうした動きの一つとして、和歌山県では粉河(こかわ)騒動と呼ばれる事件が起きました。この粉河騒動においては、他の多くの地域とは違って、手順④における平均相場の決め方に対して異議申し立てがなされたのが特徴でした。

 

地租改正の和歌山県での最高責任者である和歌山県県令(けんれい:現在の県知事)神山郡廉(こうやまくにきよ:土佐藩出身、和歌山県の県令を10年間務める)は、「地租改正ニ付人民心得書」なるものを公布して、「もし了解できないことがあれば遠慮せず何度でも申し出て、誤解の無いように調査をしなさい」と農民たちに広く伝えました。

これに応じた形で、米の平均相場の決め方についての質問書を神山県令宛てに提出したのが、慶應義塾で学び、大蔵省に出仕した後に郷里に戻ってきていた、まだ20代後半の若き児玉仲児(こだま ちゅうじ)でした。児玉家は江戸時代には代々庄屋を務める家で、児玉の父もこの時戸長(こちょう:後の村長)を務めていました。

 

【 粉河寺大門 (撮影:筆者) 】

 

地租改正に当たって和歌山県では、一石(いっこく:米の体積の単位で1000合と同量)当たりの米の平均相場について、県下一律で5円55銭としていました。この額は、米の売買価格が和歌山県よりも高い大阪や京都(5円21銭)、堺(5円)よりも高い額となっていたため、その理由は何かと児玉は県令に対して問い質したのでした。平均相場が高く設定されれば、当然地価も高くなり、その額を元に算定される地租も高い額で要求されることとなります。児玉は、この平均相場の問題点を鋭く突いて、県の地租改正のあり方に異議を唱えたのでした。

 

県は当初この質問書に対する回答をしなかったため、児玉は回答を求める文書を提出して抗議します。そしてようやく出された回答書で県は、①平均相場は政府の指示に従って定めている。②具体的には和歌山・田辺・新宮の三か所の相場を平均化した。③一地域の相場と違うのはやむを得ないといった内容を伝えてきます。

児玉はこれに対して、米価が異なる地域ごとに平均相場を設けることこそが、政府の方針に合っている。そして、京都府の丹波地域では三通りの相場を設けているのだから、和歌山県でも米の値段が高い紀南(きなん)地域と値段の低い紀北(きほく)地域の二つに分けて、平均相場を定めるべきだと主張する建言書を提出します。

児玉の建言書は、紀北地域である周辺の戸長や副戸長たちに影響を与え、彼らは平均相場の引き下げや、地域ごとの平均相場に改正するよう求める動きを、県に対して起こしていきます。戸長たちとの交渉の場で県は、一県の中で複数の相場を設けることはできないと主張しますが、戸長たちは新聞記事を示して、京都府や広島県では複数の相場を設けていると反論。県が根拠とする政府の通達も一県一律の価格を求めてはいないと論理的に主張します。

 

【 粉河寺本堂 (撮影:筆者) 】

 

こうした交渉が何度も繰り返される中で、県は県下一律の米価を多少引き下げることを提案しますが、戸長たちはそもそも県下一律で相場を定めるのが不公平な方法なのだとして、あくまでも地域ごとの平均相場にすることを求めていきます。そして交渉が長期化して改正作業が遅れていく中で県は、村々から出された土地の等級表を否定し、県が一方的に作成した地価の決定書を村々に押し付けるという態度に出ます。そこでの地価の額は予想を上回るものに修正されており、戸長たちが求めてきた平均相場の改正も当然の如く否定されました。

こうした県の対応に対して農民たちの側に反発が強まる中で、児玉は上京して紀州藩(きしゅうはん:現在の和歌山県と三重県南部)出身で新政府の高官となっていた陸奥宗光(むつむねみつ:後に外務大臣として不平等条約の改正に成功する)に会って事態の収拾を図ろうとします。一時期紀州藩の藩政の中心を担った父が失脚したことなどもあって紀州藩を離れた陸奥は、坂本龍馬と知り合い、坂本が創設した海援隊の一員として活躍する中から新政府の一員となりました。そして、神奈川県令を務めていた時には、土佐出身の大江卓(おおえたく:後に立憲自由党から衆議院議員となる)を右腕として、新しい警察制度の創設を行なうといった活躍をしましたが、この時期には元老院議官という職を務めていたのでした。

【 陸奥宗光(Wikipediaより) 】

 

しかし県は、戸長たちを県庁に呼び出し、児玉の父親など5人を拘留するという強硬手段に訴えます。このことが伝わった地元では、粉河寺(こかわでら:『枕草子』の中でも取り上げられている伝統ある古刹)などに多くの農民が集まります。翌日には千人近い農民たちが集まって、5人を取り戻すために県庁まで押し寄せようとします。これに対して県は、説得する巡査などを派遣すると共に、大坂鎮台(ちんだい:地方に置かれた軍隊組織。この頃は全国に六つの鎮台が存在していた)に出兵を求めます。その翌日にはさらに多くの農民たちが集まりますが、軍隊の出動も始まった中で警察幹部の説得を受けて、農民たちは解散していきました。

 

【 十禅律院(撮影:筆者) 】

 

こうして騒動がおさまると、神山県令自らが粉河村に出向き、粉河寺内に県の出張所を設置。寺内の十禅律院を宿泊所として騒動の後始末の陣頭指揮をとります。神山県令は、騒動に参加した農民たちへの厳しい取り調べを行なうと共に、各村に官員を派遣して、県が作成した地価の決定書に同意することを強制します。こうした中で農民たちは地価の決定書に同意せざるをえなくなりました。そして、1140名もの農民たちが裁判にかけられ、688名が有罪とされ、児玉の父はその中で最も重い懲役百日の刑を受けることとなってしまったのでした。ただし児玉は、和歌山県に戻ってから県庁に出頭して尋問を受けただけで、罪に問われることはありませんでした。

こうして粉河騒動は農民側の一方的な敗北として終わることとなりましたが、その後も和歌山県内の各地で地租改正に異議を唱える動きは続き、その年の末には茨城県の真壁郡や那珂郡、そして三重県を中心に愛知県や岐阜県まで広がる大規模な地租改正に反対する一揆が起こされました。こうした全国各地の農民からの強い反発に直面した政府は、地租率を3%から2.5%へ引き下げることや、それに応ずる形で省庁の統合や大量の人員整理を行わざるをえなくなったのでした。

 

【 『三重県下頌民暴動之事件』(Wikipediaより) 】

 

この粉河騒動の2年後、当時多くの農民たちが集まった粉河寺の境内に、児玉たちの手によって猛山(もうざん)学校という近代的な教育機関が設立されることとなります。陸奥宗光から学校設立の提案を受けた児玉は、騒動によって多くの人が痛い目を受けて沈滞した雰囲気が残る地元に、騒動の時の仲間たちと協力して、近代教育のための学校を設立することを決意したのでした。

猛山学校という名前は、粉河寺の山号である風猛山にちなんで名づけられました。猛山学校では、歴史、法律、作文、算数の4つの学科が置かれ、文章を作ってお互いに批評する文会が一週に一度、演説を行う場も一月に二度設けられました。このように、生徒たちが自ら活動して、その創造性を発揮するという文会と演説場を設けた点が、猛山学校の教育理念を表す大きな特徴だったと言われています。

こうして東京から専任教師を招いてスタートした猛山学校でしたが、せっかく招いた専任教師も数カ月で辞任してしまうなど、その維持はなかなか難しく、児玉が教師の代役を務めるなど大きく苦労したようです。また学校の財政は、生徒からの授業料と児玉たち有力者の寄付金によって成り立っていましたが、この財政面での安定も大きな課題となりました。

こうした課題を克服し、猛山学校を継続させていくために、児玉は中西光三郎(なかにしみつさぶろう:後に衆議院議員を務める)や千田軍之助(せんだぐんのすけ:後に衆議院議員を務める)といった仲間たちと実学社という結社を結成します。そして猛山学校はその経営母体を実学社とし、名称も実学社猛山学校として継続されていくこととなったのでした。

 

【 猛山学校跡の石碑 (撮影:筆者) 】

 

児玉たちが結成した実学社では、学校経営だけでなく、病院の経営や、地租の軽減を求める活動も行なわれました。その頃明治政府は地方の実情を知るために、地方官会議という場を全国の県令や府知事を集めて開くこととしましたが、神山県令はこの会議に参加するにあたって、県民に対して広く意見を求めました。これに応じて実学社は臨時会議を開き、児玉が起草した案に基づいて議論した上で、租税に関する建議書を県令宛に提出します。

この建議書では、変動が多い米価を基準とした地価を廃止して、土地からの所得を基準として税額を定めるべきと主張されていました。この建議を「妙案」とした県令からその具体的方法を問われたため、児玉は実学社の有志たちと協議して、所得の検出方法を練りあげて提案します。その中では、耕地では小作人から出される米麦を見積もって所得として地租の基準とすること。地主から公選された委員による協議を行っていくこと。公選の鑑定人によって所得が適正であるか否か調査をすることといった、具体的な方法論が提案されていました。ここでは、粉河騒動の時のような単なる地域的利害に基づく異議申し立てではなく、税額の決め方に対する納税者の側からの具体的な対案が提案されていたのでした。

 

そして実学社では、新たに創設された県会議員選挙に取り組むといった政治活動も行なわれました。初めての県会議員選挙では、児玉や中西を含む複数の実学社社員が当選し、中西は副議長となりますが、この時に初代議長となったのが浜口梧陵(はまぐちごりょう)でした。

【浜口梧陵(Wikipediaより) 】

 

浜口は有田郡広村(現在の和歌山県広川町)の人で、7代目浜口儀兵衛(ぎべえ)とも言います。初代の浜口儀兵衛は、江戸時代の初期に紀州から千葉の銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業しました。鎌倉時代に中国から味噌の製法を学んで帰国した僧が、広村のお隣にある湯浅村(現在の和歌山県湯浅町)の村民たちに味噌の製法を教えている時に、誤って醬油の原型が出来上がったとして、湯浅村は日本の醤油発祥の地とされています。

一方広村の漁民たちには黒潮に乗って調子などに渡って出稼ぎをする者が数多くいたといいます。初代の儀兵衛はそうした広村の人たちと湯浅醤油の製法による醤油の醸造業を銚子の地で始め、大消費地である江戸に流通させることによって、大きく発展していったものと思われます。

 

【 広川町役場前にある「稲むらの火」を手に持った浜口の銅像(撮影:筆者) 】

 

いわゆる黒船が来航する直前に7代目儀兵衛を継承した浜口は、銚子や江戸で家業の経営に従事し、数年に一度は本宅のある広村に戻ってくる生活を行なっていました。たまたま浜口が広村に戻っていた時に、安政の大地震が起きました。それまでも何回か津波の被害にあってきた広村は、夜になって大津波に襲われます。この時に大津波に気づいた浜口は、高台の田んぼに積んであった稲のワラの山に火を投じて、夜の闇の中で村民に津波の危険を知らせ、多くの村民の命を救ったと言われています。

明治の文豪である小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、この浜口の行動をテーマとして『生き神 (A Living God)』(『仏の畑の落穂 (Gleanings in Buddha-Fields)』収録)という作品として書き上げ、浜口を生き神としてほめたたえました。また、この作品に感銘を受けた湯浅町出身の小学校教師が昭和となって書いた物語である『稲むらの火』は、国定教科書である小学国語読本に採用され、浜口の名前とその行動は全国的にも知られるようになったのでした。

【 広村堤防(撮影:筆者) 】

 

浜口はこの震災の後に、津波の被害を防ぐための堤防を建設する事業を、私財を投じて起こします。そして、この事業に村民たちを雇用することによって、津波の被害を受けた村の経済を立て直すことを計画します。つまり税金ではなく私財に公共事業によって地域社会の再建を果たしていったわけです。広村堤防と呼ばれるこの堤防は、1946年の昭和南海地震による津波でも住民を守り、国指定史跡として現在も残されています。

 

【 耐久社(撮影:筆者) 】

 

さらに浜口は地元の有力者たちと協力して、「自学自労」を教育方針とする「耐久社(たいきゅうしゃ)」という私塾を開設しました。この校名には、学舎がいつまでも永く続き「自学自労」の精神を持った若者が育っていってほしいという思いがこめられていたと言われています。この耐久社が現在の耐久中学校、耐久高校につながり、両校の敷地内には現在の若者たちの姿を見守るように梧陵の銅像が立っています。このような活動を行なってきた浜口は、県内きっての有名人であり、当然の如く初代の県会議長に選ばれました。児玉たちは県会の場で、浜口を始めとする県内の有力者たちとの人脈を築いていったのです。

 

【 耐久中学校内に立つ浜口梧陵の銅像(撮影:筆者) 】

 

ちょうどその頃、国会の開設を求める運動が全国的に盛り上がっていました。児玉は中西に対して国会開設の問題を実学社で議論しようと提案。臨時に開かれた実学社の会議での議論の末に、実学社社員以外からも広く署名を集めて、政府に国会開設の建言書を提出することが決定されます。その翌日、児玉と中西たちは早朝に粉河を出発し、丸一日歩いて浜口の家を訪れます。そして、浜口の家から県内の有力者や県会議員と連絡を取って、署名を集める活動を広げていきます。その結果、およそ百名の署名が集まりました。浜口という権威ある人間の存在と、児玉や中西の県会での人脈作りが、この署名集めにおいて大きく生かされたのでした。

そして児玉や中西、千田たちは国会開設を求める署名運動の代表として上京。児玉は福沢諭吉と面会し、慶應義塾関係者と建言書の修正を行ない、東京にいた浜口の了解も得た上で、建言書は政府に提出されたのでした。こうした国会の開設を求める活動が全国的に盛り上がる中で、政府は翌年、約10年後に国会を開設することを約束することになったのでした。

 

【 中西光三郎 (Wikipediaより) 】

 

さて、県会議員となった児玉は、県の予算削減のための活動も県会の場で行ないます。国会開設の署名運動を行なった年に開かれた第2回通常県会で、県から提案された4万6千円以上の警察費の予算案に対して、児玉は約2万5千円に減額するよう提案。いったんは否決されますが、粘り強い議論を重ねた結果、最終的に多数の賛成を得て自らの提案の成立に成功します。このように初期の和歌山県会は、自由な議論が行われる雰囲気がある一方で、議事が混乱することもしばしばあったようです。議長としてその取りまとめに苦労していた浜口は、全県的な融和を図るための組織作りに取り組みます。児玉や中西もこれに協力した結果、会員が千名を超える木国同友会(きのくにどうゆうかい)という政治結社が結成され、浜口が会長、中西が副会長に就任します。

しかし、その頃政府は自由民権運動を弾圧するために集会条例という法律を改悪します。その結果、複数の政治結社に所属することは出来ない、政治結社は地域に支部を置くことが出来ない、といった様々な制約を自由民権運動は受けることとなりました。そのため社員の多くが木国同友会にも加入していた実学社は、木国同友会を優先させた結果、社員の数が大幅に減ることとなり解散に追いこまれました。そして、経営母体である実学社を失った猛山学校も約6年でその幕を閉じることとなってしまったのでした。

また同じ頃に、松方デフレと呼ばれる深刻な不況に農村は襲われます。西郷隆盛たちによって起こされた西南戦争の戦費調達のために政府は大量の紙幣を発行。そのために生じたインフレーションを解消するために、大蔵卿 松方正義は、市場から大量の紙幣の回収を行なってデフレーションを誘導する財政政策を行ないました。 その結果、米や生糸の値段が下がったため農村は不況に陥ることとなったのです。さらに和歌山県内では日照りによるかんばつ被害が重なり、この対策に児玉は追われることとなりました。こうした状況の中で県内の自由民権運動も停滞していくこととなったのでした。

一方浜口は、多額の私財を投じて木国同友会の運営に取り組みました。しかし、浜口は県内の政財界人の融和を図ることを最優先としていたため、木国同友会は県会議員や県内の有力者たちが親睦を深めるような組織に留まり、具体的な政治活動を行なう組織にはなりませんでした。

このように県内の自由民権運動が停滞する中で、4年余り獄中にいた陸奥宗光が出獄することとなりました。西南戦争が起こされた時、林有造(はやしゆうぞう:後に自由党所属の衆議院議員。逓信大臣なども務める)や大江卓などの立志社(板垣退助たちが創設した日本で最初の民権結社)の一部のメンバーたちが、これに呼応して挙兵しようと企てました。陸奥が神奈川県令を務めいた頃にその右腕として働いた大江から、陸奥はこの計画の相談を受けていました。この計画は実現せずに終わったのですが、林や大江と共に陸奥も計画に関与したものとして逮捕されて入獄していたのです。

 

【 大江卓(Wikipediaより)】

 

粉河騒動の時から陸奥と深い関係をもっていた児玉は、停滞する自由民権運動を再興していくリーダーとして、出獄後の陸奥に大きな期待を抱いていました。そこで児玉は、陸奥を郷里の和歌山に招待して歓迎会を開くことを木国同友会に提案します。県外の運動の影響が持ちこまれて県政が混乱するのを恐れた浜口が消極的だったため、児玉たちは東京で福沢諭吉から浜口を説得してもらって、歓迎会への承諾を得たとも言われています。その結果、歓迎会は県会議事堂で大々的に開かれ、神山県令を始めとした多くの名士が出席。浜口は自らの本宅にあった屏風や敷物などをわざわざ運ばせて提供し、歓迎会は華やかに行われたのでした。

このように、陸奥の力を使って運動の再構築を図る児玉たちと、あくまでも県内の融和を第一とする浜口との間には、徐々に政治方針の違いが明らかになっていきます。ところが、渦中の人である陸奥は運動とは距離を置くようになり、伊藤博文の勧めを受けてヨーロッパに留学し、帰国後は外務省に入省してしまいます。ただし陸奥は、政府の側に立ちながらも民権運動との関係は保ち続け、児玉は陸奥と協力して県内の政界への影響力を拡大していきました。

一方の浜口は、事業を後継者に譲った後、念願だったアメリカへの旅に出ます。幕末に海外からの船が広村の近海にも現れるようになったことに危機意識を持った浜口は、国防のための広村崇義団という自警団を結成しました。その後の黒船の来航といった事態を受けた浜口は、「いまの時に当たりて鎖国を固守し、攘夷論を振り回すは、物陰より吠える犬にも似て、卑屈至極のゆえんと言うべし」という意見を述べる開国論者となっていきます。西洋の実態をこの目で見てみたいという強い思いを持った浜口は、海外への渡航を長年夢見ていたのですが、鎖国政策の壁や家業の事情などでかないませんでした。その夢を実現すべく、木国同友会の活動がまだ軌道に乗っていない中でアメリカへ旅立った浜口は、カリフォルニアからナイアガラの滝、そしてニューヨークへとアメリカ大陸を横断しますが、ニューヨークで病にかかって異国の地で帰らぬ人となってしまいます。

【 ナイアガラを訪れた際の浜口(浜口悟陵記念館展示より) 】

 

そして、木国同友会の副会長だった中西が浜口の後継者となりますが、浜口を失った会の活動は停滞し、解散していくこととなりました。その後、中西は千田たちともに浜口の穏健な政治路線を引き継いで、陸奥・児玉たちに対抗する政治グループを作っていきます。そして、かつて実学社で共に活動した者同士がその後は政治的対立を深め、争い合うようになっていってしまったのでした。

しかし、そのような政治的対立とは別にして、地租の軽減を求める活動は県内各地で続けられました。実学社の社員だった津村重兵衛(つむらじゅうべえ:県議、和歌山紡績社長などを務める)や稲本保之輔(いなもとやすのすけ:県議を務め、自助私学校や養蚕伝習所の運営に取り組む)は、全国の地価を調べるために各地に出張して資料を集めました。その資料を使って地価の修正を求める請願が複数の村から出されるなど、県内各地の村々で地価の修正を求める行動は継続されていったのです。

こうした行動の末に政府は、「(和歌山県の)米価高キニ失シ」と自らの誤りを認め、地価の修正を行ないます。そして、三回に渡って行われた地価の修正の結果、県下全体で当初の三割の減額=減税が実現されます。こうして、児玉たちによる粉河騒動以来の地価の修正を求める運動は、県内の様々な人たちの手によって継続されていった結果、ようやく実を結んだのでした。

 

自由民権現代研究会代表 中村英一

 

【参考文献】

『和歌山県史 近現代 Ⅰ』和歌山県

『粉河町史 第1巻』粉河町

『粉河町史研究 第12号』粉河町史研究会編

『粉河町のなりたち 歴史をうごかした人々』粉河町教育委員会

『和歌山の研究 第4巻近代篇』

『和歌山県民権家児玉仲児と慶應義塾』高木不二

『和歌山県の歴史』小山靖憲 山川出版社

『図説和歌山県の歴史』安藤精一 河出書房新社