自由民権運動の壮士たち 第19回 『冠弥右衛門(かんむり やえもん)と義民たち (神奈川県)』


【 冠弥右衛門 『冠松真土夜暴動(かむりのまつまどのよあらし)』複製(平塚市図書館所蔵より) 】

 

明治時代となって廃藩置県が行なわれたことによって、それまでの領主による土地の所有制度はなくなり、藩単位でバラバラな基準で集められていた年貢などの税収入は明治新政府のものとなりました。明治政府は、近代的な土地の所有制度に基づく、全国的に統一された新しい税制にするための地租改正という大事業に着手します。

まず土地の面積や用途(田や畑や山林など)、所有者などの調査を行なった上で、収穫高などに基づいてその土地の価格(地価)を決定し、土地の私的所有権を具体的に確定します。そして、その地価の3%を土地の所有者が現金で政府に納める制度に改革しようとしたのでした。

しかし、年によって異なる収穫高に基づく地価の算定はなかなか難しく、そのため神奈川県では土地の売買価格を算定基準にしようとしますが、土地の売買が解禁されたばかりでは、これも難しかったため、地主と小作との間に設定されていた小作料を算定基準とすることとしました。そして、村ごとに上中下といった土地の等級を定め、その等級ごとに集計された小作料の平均値から地価を算出していくという作業が村→小区→大区→県といった形(※明治時代初期の地方制度は、府県の下に大区・小区を置く制度となっていました)で積み重ねられていくことによって、地価が算定されることとなりました。

しかしこの方式では、県全体としての地租が江戸時代よりも安い額となってしまうことが明らかとなったため、政府の地租改正事務局は、小作料に基づく地価の算定方式から、収穫高に基づく方式へ変更するように命じます。さらに、江戸時代を下回らない税収入を確保するために、改正事務局によって見込まれた収穫高が県に押し付けられることとなりました。そして、この押し付け収穫高に基づいて、大区→小区→村へといった形で地価が決定され、その結果、神奈川県全体で26%もの増祖(増税)となってしまったのでした。

 

【 地租改正反対一揆の様子を伝える浮世絵 (Wikipediaより)】

 

こうした地租改正事業の進め方に対して、茨城県の真壁(まかべ)郡や那珂(なか)郡で地租改正に反対する一揆が起こされ、三重県を中心に愛知県や岐阜県まで広がる大規模な一揆も起こったため、翌年政府は地租率を3%から2.5%へ引き下げることを決定します。神奈川県内でも、一揆にまでは至らずとも、県が上から押し付けるやり方への不満が生まれることとなりました。

その中で、4倍近い大幅な増税となる地租を押し付けられた鎌倉郡瀬谷(せや)村(現在の横浜市瀬谷区)など7か村では、この地租決定に対する不服運動が始められました。7か村は、地租を決定するやり方が現実にそぐわないことを具体的に批判した嘆願書を何回も提出して、地租改正事務局に対して調査のやり直しを求めました。

このような7か村による歎願が最初に行われた日の夜に、同じ県内の大住(おおすみ)郡真土(しんど)村(現在の平塚市真土)で、冠弥右衛門(かんむりやえもん)ら約30名の農民が、土地の所有権をめぐって揉めていた地主の松木長右エ門(まつきちょうえもん)の家を襲って、長右エ門と家族ら7名を殺害し、屋敷を焼き討ちするという真土事件が起きたのでした。

 

【 真土事件を伝える横浜毎日新聞複製(平塚市図書館所蔵より) 】

 

江戸時代、質入れされた土地に関しては、元のお金を返済すれば取り戻せるとする有合質地(ありあわせしっち)という慣行がありました。つまり、元の持ち主の同意が無ければ土地の所有者は変わらないという慣行のことで、現在の神奈川県の地域では広く行われていたようです。ところが地租改正の作業が進められていく中で、最初に政府が示した規則では質地に関してはこれまで通りの扱いとされていたものが、規則が変更されて行くにつれて、質として持っていた者の名義に書き換えるということに変わって行ってしまいました。

当時の真土村では、65名の農民が豪農である長右エ門に農地を質入れしていました。最初長右エ門は農民たちに対して、元のお金を返済すれば質地はいつでも戻すと、村の主だった者たちが証人として立ち会った場で約束していました。ところが地租改正の作業が進む中で、質地の名義が長右エ門名義に書き換えられて行ったことが明らかになったため、弥右衛門らを代表とした農民たちは、名義を元に戻すよう交渉しますが、長右エ門はこれを拒否。話が違うと、弥右衛門や証人となった者たちは異議を唱えますが、長右エ門はこれを認めようとしませんでした。

弥右衛門たちからこの話を聞いた農民たちの中からは、「松木宅へ押し寄せて、長右エ門をたたき殺せ」というような過激な意見も出されたようですが、弥右衛門は代言人(弁護士)に依頼することで意見をまとめます。そして、弥右衛門たちは横浜まで出かけて塩谷俊雄という代言人を見つけ、横浜裁判所に提訴します。その結果、横浜裁判所は質地を原告側に差し戻すべきとの判決を出し、弥右衛門たちが勝訴することとなりました。

 

【 法廷での代言人塩谷俊雄 『真土村冠松木(しんどむらかむりのまつぎ)』複製(平塚市図書館所蔵より) 】

 

しかし、長右エ門は東京上等裁判所に控訴して逆転勝訴を勝ち取ります。そして、長右エ門はこれらの裁判にかかった費用と、裁判の間に延滞されていた小作料の支払いを求めて小田原裁判所に取り立て請求を起こし、その判決を元に農民たちに支払いを求めて行きました。農民たちは、訴訟準備に追われて収入が減っていたところに、周辺の村々から借りた裁判費用の支払いもあって、経済的に非常に厳しい状況に追いこまれていきました。そこで農民たちは何とかお金を集めて、長右エ門と示談をまとめるよう弥右衛門に依頼します。しかし長右エ門は、裁判費用も小作料もビタ一文まけないとこれを拒否し、農民たちは更なる苦境に追いこまれていったのでした。

 

長右エ門は当時30代半ばで、真土村の田畑の約65%を自分の土地と質地として所有する大地主でした。真土村で一番早くざん切り頭にし、有章館という学校を創設し、戸長(こちょう:後の村長)として用水や道路の整備を行うなど、地域のリーダーとしての力も発揮する能力ある人物でした。一方の弥右衛門も長右エ門とほぼ同じ30代半ばで、読み書きも出来て農業での能力もあったため、長右エ門の良き相談相手にもなっていたようです。ところがその2人が、地租改正という荒波に襲われた村の中で、対立しあう関係になってしまっていったのでした。

 

【 東京裁判所での松木長右エ門 『真土村冠松木』複製(平塚市図書館所蔵より) 】

 

この真土村は、江戸時代には佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の飛び地の領地とされていました。その佐倉藩は、江戸時代の前半に重税に苦しむ農民のために佐倉惣五郎(さくらそうごろう)が将軍への直訴を行なって、訴えは認められたものの処刑されたという義民伝説のある地でした。この話は江戸時代後半になって歌舞伎や講談として取り上げられて、大ヒット。佐倉惣五郎は民衆のために一身をささげた義民として、広く知られるようになっていました。弥右衛門もこの義民伝説の影響を強く受けていたようで、自ら農民たちの先頭に立って、この質地問題に取り組むようになったのでした。

 

【 佐倉惣五郎 (Wikipediaより) 】

 

そして弥右衛門は、敗訴によって厳しい状況に追いこまれながらも、あくまでも合法的な解決手段を探ろうとします。しかし、これまでの裁判費用の返済に苦しむ実情の中では、大審院への控訴は困難と考えられました。そこで弥右衛門は、司法省へ駆けこんで訴えようと決意。同意した3名の仲間とともに、上京して司法省に訴状を提出しますが拒否されてしまいます。こうして弥右衛門たちが上京している間に、長右エ門の家を襲撃する計画が残った農民たちによって企てられて、弥右衛門が落胆して村に戻った時には準備がすっかり出来上がっていたのでした。

 

【 松木宅討ち入りの様子 『真土村冠松木』複製(平塚市図書館所蔵より) 】

 

そして弥右衛門も加えた約30名の農民たちは、周囲に堀をめぐらし、母屋や土蔵などを合わせて12棟もあった広大な長右エ門の屋敷に深夜に討ち入り、長右エ門と家族ら7名を殺害、屋敷を焼き討ちするという真土事件を起こしてしまうのでした。

この事件に対して警察は、平塚の阿弥陀寺に本部を置いて、百人以上による大掛かりな捜査活動を行なって、弥右衛門たちを逮捕していきました。その逮捕者たちが横浜に護送されていく際には、道筋に村民たちが集まって土下座して見送ったと言われています。そして約半年後に横浜裁判所は、弥右衛門ら4名を死刑、8名を懲役約8年(1名は獄中で病死)、14名を懲役3年としました。ただし、死刑とされた弥右衛門ら4名は県令預かりの身となって、罪を減じられて終身刑とされました。また、その他の者たちも本来は死刑とされるところを懲役刑に軽減されたのであり、懲役3年の者たちはすぐに保釈されました。このように容疑者全員に減刑が行われて、独りの死刑者も出さずに済んだのは、罪の軽減を求める大規模な歎願運動が行なわれたからだったのでした。

 

【 現在の阿弥陀寺 (撮影:筆者) 】

 

この真土事件は、新聞などで全国的に報道されて多くの関心を呼びました。代言人を務めていた塩谷たちは、嘆願書による罪の軽減運動を始めることを決意し、嘆願書のひな形を作って村民たちに渡します。そして、真土村のあった大住郡など周辺3郡の戸長や副戸長など地域の有力者たちによる署名が集まって、神奈川県令(現在の県知事)・野村靖(のむらやすし:後に内務大臣などを務める)に提出されます。

 

【 真土事件を伝える郵便報知新聞複製(平塚市図書館所蔵より) 】

 

その嘆願書の内容は、弥右衛門たちが罪人であることは言うまでもないが、彼らの行動は「一人の私怨」からではなく「一村一郷の公怨」から出たもので、真土村の悲惨な状況を見た上での「恩仁」を願う、というものでした。そして、嘆願書の署名数は増え続け、翌年には約1万5千名にまで達します。

また、鎌倉の建長寺や円覚寺、藤沢の遊行寺といった有名な大寺院の住職3名も共同して嘆願書を県令に提出します。弥右衛門たちには「一村農民の人気」があり、「貧民の困難」のために取った「義」の行動であるとして、罪を軽くするように求めたのでした。このような嘆願書が数多く集まって来たのを受けて、野村県令は右大臣・岩倉具視(いわくらともみ)に上申書を提出します。その中で野村は、真土事件の実情を説明した上で、弥右衛門たちの行動は村への「慈愛の心」から出たものとして罪の軽減を求めたのでした。

このような様々な歎願運動によって、弥右衛門たちの罪は軽減され、終身刑だった弥右衛門も後に罰金を払うことで出獄し、最終的には大日本帝国憲法の発布による特赦で全員が自由の身となったのでした。

 

【 野村靖県令 (Wikipediaより) 】

 

その後の後始末に関しては、松木家と親しかった戸部村(現在の横浜市西区戸部町)の豪農・海老塚四郎兵衛(えびづかしろうえもん:神奈川県会議員や横浜市会議員を務める)が真土村の村民と松木家の間に入って話をまとめていきました。長右エ門が請求していた裁判費用と小作料の延滞金は、松木家からの申し出で帳消しとされ、松木家の土地は海老塚に売却。村民の質地は、海老塚から村民に売り渡されることとなり、村民たちは県から無利子の救助金を借りることによって土地を買い戻したといいます。

また、松木家の屋敷跡には、被害にあった松木家の人々の霊を弔い、村内の和解を図っていくための持仏堂が、村の共有物として建てられることとなりました。その資金は、村民や刑に服した人々、海老塚などから幅広い寄付の形で集められ、松木家と村民との融和が図られていきました。罰金を払って出獄した弥右衛門は後に、松木家の人々や獄死した仲間の霊を弔うためとして出家し、約4年間諸国を巡礼した後に亡くなりました。そして真土事件は、『真土村冠松木(しんどむらかむりのまつぎ)』や『冠松真土夜暴動(かむりのまつまどのよあらし』のような読本(よみほん)や芝居となって語り継がれるようになっていきました。

特に事件を題材とした芝居は横浜や東京で上演されて人気を集め、歌舞伎役者の初代中村時蔵が演じた冠弥右衛門役は評判を呼んで、真土村からも見物客が押し寄せたといいます。また、明治から昭和初期にかけて活躍した小説家の泉鏡花(いずみきょうか)は、弥右衛門の名前を弥左衛門と変え、舞台設定を江戸時代とした小説『冠弥左衛門(かんむりやざえもん)』を書いて文壇にデビューしました。

 

【  左が長右ェ門 右が弥右衛門 『真土村冠松木』複製(平塚市図書館所蔵より) 】

 

このように真土事件を扱った芝居などが人気となり、減刑を求める幅広い歎願運動が起きたのは、地租改正という大変革の荒波に襲われ、増税に苦しんだ当時の多くの人たちにとって、真土村での出来事は他人ごとではなく、まさしく我がこととして深い共感を呼んだからだと思われます。そうした多くの人たちにとって弥右衛門は、民衆のために一身をささげた義民という存在に感じられたのでしょう。

 

【 真土自治会館内に立つ怨親を超えた人々の碑 (撮影:筆者) 】

現在の平塚市真土地区の松木家跡の土地には、真土自治会館が建てられていて、その一角に「怨親を超えた人々の碑」が立っています。これは事件から約90年経った昭和41年に、事件の関係者の子孫の方々によって、先祖の霊を慰めると共に憎しみあった暗い過去を水に流すために建てられたということです。

 

さて、この真土事件では農民たちに多大な温情を示した野村県令でしたが、地租改正への不服運動を行なった瀬谷村など7か村に対しては、一貫して厳しい態度で対応しました。不服運動を続けた農民たちは、野村県令を被告として地租改正処分の不当性を訴える裁判を東京裁判所に起こします。農民たちは5年間にも渡って裁判を戦って、正当な地租の算出を求め続けました。しかし、中心人物である川口儀右衛門(かわぐちぎえもん)と平本平右衛門(ひらもとへいえもん)の二人が病に倒れたこともあって、不服運動に関わる費用の償い金として県から6千円のお金が無利息で貸し出されたことで、運動は終わっていったようです。

 

【 義民川口・平本建功之碑 (撮影:筆者) 】

現在の横浜市瀬谷図書館のお隣にある徳善寺の境内には、平口と平本を義民として讃える石碑が残されています。

 

時代や社会が大きく変わって行く中で、不安や苦しみを抱えながらも、自分たちの権利を守るために抵抗し、懸命に生きようとした真土村の農民たちと瀬谷村など7か村の農民たち。こうした人たちにとって、弥右衛門や川口や平本は、まさしく民衆のために一身をささげた義民と感じられたことでしょう。

また、不安や苦しみに心折れそうになりながらも、それを乗り越えようと苦闘した彼らの意志に共感した多くの人々の意識を土台にして、この後の神奈川県では、租税のあり方やその決定のシステムの変革を言論の力によって求める、力強い自由民権運動が湧き起こっていくこととなりました。

同じようにグローバル化やIT革命、コロナ禍によって時代や社会が大きく変わって行く中で、不安や苦しみを抱える現代の日本の私たちも、こうした明治の先人たちの姿に学ぶべき点があるのではないか。租税のあり方に異議を唱えた運動のリーダーたちを義民として讃えた石碑の前に独り立ちながら、そう思わされた次第です。

 

自由民権現代研究会代表 中村英一

 

【参考文献】

『平塚市史 通史編 10』平塚市

『平塚市史 資料編 近代1』平塚市

『横浜市史 第三巻下』横浜市

『神奈川県史 通史編4 近代・現代』神奈川県

『社会研究 特集 真土一揆とその歴史意識』厚木高校郷土研究部

『横浜瀬谷の歴史』横浜市瀬谷区

『自由民権運動と神奈川』大畑哲 有隣新書