自由民権運動の壮士たち 第18回 『福沢諭吉と林金兵衛(はやし きんべえ) (愛知県)』


【 林金兵衛 『贈従五位林金兵衛翁』より 】

 

江戸時代は、土地の領主が農民に年貢を納めさせるというのが、税制の中心的な仕組みでした。明治政府は、財政収入の安定をはかるために、この年貢制度を新しい税制へ変える地租改正を行ないます。この地租改正に対して、三重県を中心とした東海地方の広い範囲や、茨城県の真壁(まかべ)郡、那珂(なか)郡で一揆が起こされます。明治政府は税率である地租率を3%から2.5%へ下げることによって、農民の怒りを収めようとします。

 

しかし、一揆スタイルによる一時的な反対運動ではなく、合法的な形で税の軽減を求める継続的な運動も各地で取り組まれました。当時の愛知県春日井(かすがい)郡の43か村(最終的には42か村)によって取り組まれたそうした運動のリーダーとなったのが、林金兵衛(はやしきんべえ)という人でした。

 

金兵衛は、江戸時代末期に尾張国春日井郡上条村(じょうじょうむら:現在の愛知県春日井市上条町)で庄屋を務める家に生まれました。金兵衛の父は、屋敷内に「三餘(さんよ)私邸」という武道場を建て、地域の若者たちが文武を学ぶ場としたといわれています。そのように地域に貢献した父が病気で亡くなったため、25才で家を継いだ金兵衛は、自分の村だけでなく近隣の村々にも影響力を持つ地域の指導者となっていきました。

 

幕末に、新政府側と江戸幕府側の内乱状態になった際に、徳川御三家の一つだった尾張藩では、新政府支持派と江戸幕府支持派が激しく対立した末に新政府支持派が主導権を握り、京都で起きた鳥羽伏見の戦いにおいて皇居を守るために軍勢を送ります。この時に金兵衛は、地元の農民たちによる義勇軍を結成し、自ら隊長となって、戦いに加わりました。

その後、藩の命令によって金兵衛は農民を兵隊とする農兵隊を組織します。草薙隊と名づけられたこの農兵隊は、約60名の農兵で構成され、3年余りにわたって、山梨県や長野県、岐阜県などで、組織や名前を変えながら活動を続けましたが、廃藩置県で尾張藩が無くなることによって消滅することとなりました。地元を離れてこの農兵隊の活動に心身を捧げてきた金兵衛は、40代半ばとなっていましたが、地元の愛知県第三大区(後の春日井郡)に戻り、その区長となって、再び地域の指導者となりました。その金兵衛の身に降りかかってきたのが、地租改正事業だったのでした。

 

当時の愛知県政は県令と幹部職員との対立などから混乱し、地租改正事業の進行も極めて遅れていました。そこで県幹部が一新され、福島県令として安積疏水(あさかそすい:猪苗代湖より取水した水を郡山市周辺に供給する水路)を実現させた、熊本県出身の安場保和(やすばやすかず)が県令に就任します。安場は遅れていた地租改正事業を推進していくために事業を一旦停止して、担当役人を総入れ替えした上で、改正事業の新方針を発表します。

 

【 安場保和 (国立国会図書館近代日本人の肖像より)】

 

その中で安場は、「改正事業を速やかに進めるために自分は県令になった。担当職員を改め、公布されている規定に基づいて順序を定めていくように努め、公平な地租によって土地の所有権を堅固なものとする。そのために地価は、土質や収穫量の多さ、運送の便などを考慮して公平な価格を設定する。事業の障害となるものは一切取り除き、成功の駿足を期す」といった考えを力強く宣言しました。安場は県内の各大区の区長などを集めてこの新方針を演説し、各区長から大区内に伝えさせて、新方針に基づく改正作業を進めていきました。

 

地租改正では、まずは土地の測量をした上で、土地から得られる収益に基づいて地価を定め、その3%を地租として、土地の所有者が現金で納めることとされていました。まずは様々な条件を考慮して土地の等級を決定。その等級から収穫量を予想し、その収穫量と相場の平均から土地ごとの収穫高(金額)を算定。その収穫高から必要経費を差し引くなどして地価は算出されました。したがって、地価の算出根拠となる土地の収穫高を決める上で、土地の面積と土地の等級を決める作業は、極めて重要な作業となっていたのでした。

 

この土地の面積を測量する作業は、役人の指導の下に農民たちが行ない、それから土地の等級を決める作業に移ります。その作業は、次のような手順で行われることとされていました。まずは、①村の中での土地の等級を、土質や日当たり、水や運送の便などの実情に合わせて決める作業。そして、②小区の中での村々の比較検討を行なって、村の等級を決める作業(この頃の行政区分は村・小区・大区・県となっていました)。それから最後に、③大区内での各小区の等級を決める作業。このように、村→小区→大区(郡)とボトムアップの形で作業が進められて、土地の等級は決められることとされていたのです。そしてこの作業は、村→小区→大区という段階を経て選ばれた農民の代表である議員たちが、担当役人と協議して行なうこととなっていました。

 

しかし、春日井郡の担当役人となった熊本県出身の荒木利定(あらきとしさだ)は、同じ県出身の安場県令の「成功の駿足」の意向に応えようとしたためか強引に作業を進め、夜中にたいまつをつけての土地の測量調査などを農民たちに無理やり行なわせました。第三大区長として作業に協力していた金兵衛は、こうした荒木のやり方に対して抗議して、大区長を辞職。後任の大区長には、安場県令の娘婿である熊本県出身の人物が任命されて、荒木に積極的に協力していくこととなってしまいました。

 

【 土地等級を決める会議が行なわれた地蔵寺 (撮影:筆者)】

 

そして、土地測量作業がどうにか終了した後に、土地の等級を決定する作業を行なうための議員が、村→小区→大区(郡)と選ばれていき、最終的に選ばれた郡議員たちが土地の等級の決定作業を行なうこととなりました。議長には金兵衛が選ばれて、会議が開かれたのですが、この場で荒木は県が作成した各村の収穫見通し書を提案。この見通し書に基づいて、小区内の村々の等級を決定するように主張します。それまで県が示してきた規定では、土地の等級は、村→小区→大区(郡)という手順で決めることになっていたわけですが、県はその規定を一方的に変更して、小区内での等級決定から始めるように求めたのです。

また、この県が作成した収穫見通し書は、あらかじめ郡内の総収穫量を見積もった上で各村に分配して、政府が予定した地租額を確保しようとするものでした。このように土地の実際の状況に基づかずにトップダウンの形で地租額を決めようとしたわけですが、実はその際に県は「(旧来の年貢に比べて)重かった部分を削り、軽かった部分を重くする」という操作を行なっていました。そのため、色々な実情から年貢が低く設定されていた村では、地租額が高く設定されるようになってしまったのです。

 

金兵衛たちは、規定通りの手順に基づいて、村内からの等級決定作業を進めるよう主張します。これに対して荒木は、「県の主張に従わないのであれば、収穫期を迎えた稲の刈り取りを禁止する」という「鎌止め令」を出し、自分に協力する大区長と一体となって農民たちを脅し、県が作成した収穫見通しを受け入れるよう強要します。金兵衛は「このような不順序の無茶苦茶な議事」には責任を取れないとして議長を辞職します。

しかし改正作業は強行され、その結果、金兵衛の地元である和爾良村(かにらむら:上条村が周辺の村と合併してできた村)を含む春日井郡東部(後の東春日井郡)は水の便が悪いといった悪条件から元々の年貢が低く設定されていたため、113村中92村が増祖(増税)となってしまいました。一方、平坦な土地が多くて水の便が良い春日井郡西部(後の西春日井郡)で増祖となったのは、80村中39村に留まりました。

 

【 和爾良村の名を現在に残す和爾良村神社 (撮影:筆者)】

 

このようにトップダウンで土地の等級を決定したために、多くの村で増祖という結果となってしまったのですが、この結果に異議を唱えて地租の軽減を求める運動に参加した春日井郡の43か村全体では、江戸時代に比べて平均で約50%もの増祖となっていました。これでは、「地価は、土質や収穫量の多さ、運送の便などを考慮して公平な価格を設定する。」とした安場県令の方針はまったく守られず、金兵衛たちからすれば「公平な地租」とは到底思えなかったわけです。

こうして決定された新しい地租を納入するよう県は命じますが、金兵衛の住む和爾良村など数村は断固拒否。規定通りの手順で再調査を行なうことを求めて、県との交渉を重ねますが、数度の交渉は決裂し、金兵衛たちは東京の地租改正事務局へ直接歎願することを決意します。そして、金兵衛たち3か村の代表は熱田(あつた:現在の名古屋市熱田区)の港から船で横浜へ渡り、そこから汽車で上京します。

 

【 福沢諭吉 (国立国会図書館近代日本人の肖像より)】

 

東京で金兵衛は、人のつてをたどって福沢諭吉(ふくざわゆきち)に手紙を送って面談を申し込みます。諭吉は当時、『学問のすすめ』が広く読まれる有名人となっていて、政府内にも影響力を持っていました。諭吉から、「まずは嘆願書を提出した後に面談しよう」との返事を受けた金兵衛たちは、諭吉の指導通りに再調査の嘆願書を地租改正事務局に提出し、東京での地租の軽減を求める運動を開始します。

改正事務局からは「採用は難しい」との拒否回答がなされますが、地元では歎願に加わる村がどんどん増加していって43か村に達するようになり、梶田喜左衛門(かじたきざえもん)や飯田重蔵(いいだじゅうぞう)といった、後々まで運動のリーダーとなっていく人達も上京してきました。地元では、歎願の成功を求めるムードが大きく盛り上がっていたのです。

 

【 飯田重蔵の顕彰碑 (撮影:筆者)】

 

こうした地元の盛り上がりを感じながら金兵衛は、梶田や飯田と共に三田の慶応義塾を訪れ、諭吉と直接会って指導を仰ぎます。当時の諭吉は『学問のすすめ』の中で、以下のように主張していました。まず、「政府が自分の権限を越えて無法な政治を行なう場合があれば、人民として執るべき立場」は「三つしかない」。それは、「第一に、自分の志を曲げて、政府の言いなりになる」、「第二に、暴力をもって反抗する」、「第三にどこまでも正義を主張して、我が身を犠牲にする」の三つ。そして、「いかなる暴政のもとに、いかなる悪政に苦しめられても、その苦痛を忍んで、自己の信念を曲げぬこと。そしていかなる武器をも携えず、片手の力すら用いず、ひたすら正義の論を主張して、政府に訴えること。三つの立場のうち、この第三の立場が最上の策である」と主張していたのでした。

こうした考えに基づいて諭吉は、「静粛に気長に根強く」対応すべきという助言を与え、それを受けて金兵衛たちは再度の嘆願書を提出しますが、やはり「採用は難しい」との拒否回答。その一方で諭吉は、地租改正局総裁である大隈重信(おおくましげのぶ)に対して「もしも出来るならばよく考えて下さりたい。官民共に損する所がないように」と丁寧に理を説く手紙を送って、独自の働きかけを行なっていきました。

 

【 大隈重信 (国立国会図書館近代日本人の肖像より)】

 

その後、金兵衛たちが3度目の嘆願書を提出したところ、「春日井郡全体の地租額は固定とした上で、村々が協議して郡内で公平な分担ができるのであれば、再調査もありうる」という、これまでとは違う金兵衛たちに希望を持たせる回答がなされました。こうして諭吉の働きかけもあって、ようやく事態の打開への道がわずかに開けたのです。「本日良い指令が下がったので、このことを早く知らせるために一同帰国する」という内容の電報を送って地元に戻った金兵衛たちを、熱田の港では2万人もの村民たちが出迎えたといいます。

しかし、郡内での公平な分担を協議するための集会を金兵衛たちが呼びかけたものの、郡西部の減租となっていた村々からの参加はなく、10回にもわたって流会するという事態となってしまいます。ようやく開いたかと思われた道もふさがれて、八方ふさがりとなった村民たちの中に、焦りといら立ちが強まっていきます。そうした中で、明治天皇が山梨・三重・京都への巡幸の際に名古屋を通過することが明らかになり、村民たちの中からは、天皇に直訴して事態を突破しようという気運が生まれてきます。

 

【 明治天皇 (国立国会図書館近代日本人の肖像より)】

 

こうして、村民たちとの間に距離が生まれ、孤立していく金兵衛たちに諭吉は、「これまでの動きは上出来だった、この機を失して破裂することのないように」と説得する手紙を送ってきます。直訴を行なえば罪人が出ることは確実であり、これまでの合法的な歎願活動の積み重ねもすべて水の泡となってしまいます。諭吉の説得を受けた金兵衛は、梶田や飯田たちと協議して、直訴を阻止することで意思一致します。

しかし、当日名古屋に向かう明治天皇に直訴しようと、現在の名古屋市に流れる矢田川に架かる三階橋に、約5千名もの村民たちが集まってしまいます。金兵衛たちは6名で説得しようと試みますが、村民たちの気持ちを抑えることはできません。ここに至って金兵衛は、「自分の命と家財を村の民衆に抵当として渡しますから、もし我々が力を尽くしていないと認めるなら、この命を取ろうとも家を焼こうとも勝手にしてくれ」と村民たちに向かって叫んで説得を図りました。この金兵衛の気合の入った捨て身の説得に村民たちは気おされ、直訴は取りやめとなったのでした。

 

【 林金兵衛肖像画 春日井市図書館所蔵 (撮影:筆者)】

 

この金兵衛の体を張った行動を知った大隈は、金兵衛たちを高く評価します。しかし、そのような状況をまったく知らない金兵衛たちは、重い気持ちを抱えながら再び上京。地租改正事務局に嘆願書を提出しますが、やはり「採用は難しい」という拒否回答。こうした中で諭吉は金兵衛と直接会って、今後の方針を問いかけます。金兵衛は、歎願は続けていくが、うまくいかなければ村民の行動が激化していくのもやむをえないと考えていると伝えます。諭吉は、こうした農民側の意志を、以前に地租改正局副総裁を務め、大隈と近い存在だった前島密(まえじまひそか)に手紙を送って伝え、何とか妥協点を見いだせないかと工夫します。さらに諭吉は大隈に対して、「官民の間に仲介者」を立てて解決への道を開いていけないかという提案もしたようです。

一方地元では、合法的な運動に光が見いだせない中で、数百人が東京に向かおうとして警察に阻止されるといった企ても起こされます。また、一つの村が運動から離れるという事態も起きました。こうした絶望的な状況の中で金兵衛たちは、もはや歎願活動はあきらめて裁判闘争を始める準備に取りかかろうとしました。

 

【 徳川慶勝 (Wikipediaより)】

 

その一方で、諭吉の提案を受けた大隈は県当局に対して、紛争の解決を求める活動を水面下で行なっていました。そして、こうした動きを受けて安場県令も解決策を模索したようです。その結果、諭吉の提案した「官民の仲介者」として元藩主である徳川慶勝(とくがわよしかつ)に白羽の矢が立つこととなります。このあたりの具体的な経過は明らかになっていませんが、慶勝という第三者を通して、救済金という形で農民たちにお金を貸し与えることによって農民たちとの妥協を図ろうという解決策が、形成されることとなったのでした。

 

【 吉田禄在 (Wikipediaより)】

 

そして、安場県令の意を受けた吉田禄在(よしだろくざい)名古屋区長らが上京し、慶勝から「御救助を賜る」という調停案を示して金兵衛たちを説得します。金兵衛は梶田や飯田と共に慶勝と面談し、その結果5万円の救済金が42か村に貸し与えられるという合意がなされます。

しかし、慶勝にそれだけの救済金を出す財力はなく、政府から5万円を貸し与えてくれるよう大隈に求めます。大隈は、①5万円を無利子で貸し与える。②そのうちの1万5千円で公債を買い入れて、その元金と利子で返済する。③残りの3万5千円を救済金として村々に貸し与えるというスキームを作成します。そして、政府から出た資金が慶勝を通して金兵衛たちに貸し与えられることとなったのでした。

こうして金兵衛たち42か村による2年間にわたる地租改正反対運動は、諭吉による官民の衝突を回避しようとする穏和な指導の下で、金兵衛たちの粘り強い理知的な闘いを、村民たちが団結して支えることによって、村民から一人の犠牲者を出すことも無く、具体的な成果を実現し、村民たちの希望をかなえることに成功したのでした。

 

その後諭吉は東京で、交詢社(こうじゅんしゃ)という結社を創立します。現在も日本最古の社交クラブとして東京銀座で存続している交詢社は、私擬憲法(しぎけんぽう:民間で作成された憲法草案)として交詢社憲法案を作成するなどして、後に結成される立憲改進党を理論的に支える存在として活動しました。金兵衛は梶田や飯田たちと共に交詢社の社員となり、慶應義塾に資金を提供するなどして、諭吉との関係を続けていきました。

 

【東京銀座にある交詢社ビル (撮影:筆者)】

 

また地元において金兵衛たちは、歎願運動に力を注いできた村々の経済を立て直す自力更生運動に取り組むこととなります。諭吉はこの運動のために『倹約示談』という小冊子をまとめ、金兵衛たちに提供します。そして42か村では、この『倹約示談』の考え方に基づいて、それぞれが農業に精を出し、倹約していくことを申し合わせします。歎願活動の必要経費などを差し引いた救済金の残りは村々に分配されるのではなく、今後の自力更生運動のために銀行などに預金することとされました。そして金兵衛は諭吉とも相談して、『倹約示談』の考え方を実践して、地域の自力更生を進めていくための結社の設立を構想します。

しかし金兵衛は、春日井郡が東西二郡に分かれてできた東春日井郡の初代郡長を務めることとなり、その後に明治天皇が巡幸した際に、その道路整備を指揮するという重責を果たします。また、新たに創設された県議会の議員となり、県の経費を節減するために力を尽くしました。こうして地域のために多忙な日々を過ごす中で、金兵衛は肺結核をわずらい、結社設立の構想を実現することなく亡くなってしまったのでした。

 

【 飯田重蔵の離れ屋敷 明治天皇巡幸の際の休憩所にもなる 現在は春日井市郷土館 (撮影:筆者)】

 

金兵衛の死後、預けられていた救済金は村々に分配されることとなりました。しかしその後、梶田や飯田といった地租軽減運動を共に担ったリーダーたちによって、自力社という結社が設立されます。村々に分配された救済金が株式とされて、自力社の資金の源となりました。自力社は10年以上活動を続け、その活動の中心は自力更生運動とその後も続けられた地租軽減運動にあったようです。また、金兵衛の養子として林家を継いだ林古参(はやしこさん)は、愛知自由党員として活動し、地価修正運動に取り組みました。このようにして金兵衛の遺志は実現され、春日井郡での地租軽減運動はその後も地域に大きな影響を残していったのでした。

 

【 林金兵衛の顕彰碑 (撮影:筆者)】

 

【 顕彰碑文の拓本 春日井市図書館所蔵 (撮影:筆者)】

 

春日井郡でのような合法的に地租の軽減を求める運動は、当時三重県で天春文衛(あまがすふみえ)、福井県で杉田定一(すぎたていいち)、長野県で森多平(もりたへい)といった自由民権家たちをリーダーとして、各地で取り組まれました。国会開設運動などに関わりのなかった金兵衛は自由民権家とは評価されてきていませんが、地租の軽減と地域の自治を求めて活動し続けたその生き様は、各地の自由民権家たちと全く同様のものであったと思われます。

現代の日本では、売上税法案が国民の反対の声によって廃案とされたものの、その2年後の1989年(平成元年)には消費税が3%で導入されて、その時の国債発行残高は約160兆円でした。それから消費税は、5%→8%→10%と増税され続けてきているにもかかわらず、2019年(令和元年)の国債発行残高は約900兆円(約5.6倍)にまで膨れ上がってきてしまっています。それが、「失われた30年間」とも呼ばれる平成の30年間に、増税と政府の肥大化がとめどもなく続けられてきた結果です。

自由民権運動が全国各地に広がった時代に、春日井郡において取り組まれた地租の軽減(減税)を求めた金兵衛たちの運動。その運動を理論的に支えた諭吉の存在と共に、その価値が現代において再評価されるべきではないかと、林家があった跡にひっそり残る金兵衛の顕彰碑の前に立ちながら、強く思わされた次第です。

 

【 金兵衛から諭吉に送られた年賀状 春日井市図書館所蔵 (撮影:筆者) 】

 

自由民権現代研究会代表 中村英一

 

【参考文献】

『春日井市史』春日井市

『愛知県史 通史編6 近代1』愛知県

『愛知県史 資料編28』愛知県

『新修名古屋市史 第5巻』名古屋市

『福沢諭吉の農民観-春日井郡地租改正反対運動』河地清 日本経済評論社

『贈従五位林金兵衛翁』津田應助 贈従五位林金兵衛翁顕彰会

『春日井の人物』春日井市教育委員会

『郷土誌かすがい 第79号』春日井市HP

『幕末維新の身分変動 春日井の草薙隊事例から考える』森田朋子 中部大学大学院国際人間学研究科レポート