自由民権運動の壮士たち 第17回 『自由は深い森の中から生まれるという名の新聞を発行した男 森多平(もり たへい 長野県)』


【 森多平 (飯田市教育委員会『飯田・上飯田の歴史』より) 】

 

「モンテスキューといえば三権分立」というのは、中学校の歴史や公民の教科書を通して良く知られていることだと思います。この国家の権力を司法権・行政権・立法権の3つに分ける三権分立という思想は、フランスの哲学者であるモンテスキューが彼の著作である『法の精神』の中で提唱したとされています。この『法の精神』の中でモンテスキューは、ローマ帝国時代の歴史学者であるタキトゥスが古代ゲルマンについて書いた『ゲルマニア』を引用して、イギリス人の祖先である古代ゲルマン人は森の中に住んでいた。彼らは満月の夜に山上に集まり、身分を越えて自由に討議して、大きな問題について決定する習慣があった。イギリス人は、この習慣を議会という政治体制として受け継いだのだ、という説明をしました。

 

【 モンテスキュー (Wikipediaより)】

 

明治時代初期に岩倉使節団がアメリカを訪問した時、使節団副使だった木戸孝允(きどたかよし:長州藩出身の明治維新のリーダー)は、モンテスキューのことを知り、彼の著作の翻訳を書記官として使節団に加わっていた何礼之 (が・のりゆき:) を命じました。帰国後に何は、英訳本“The Spirit of Laws(法の精神)”を元に翻訳し、『萬法精理』と名づけて出版します。この本は自由民権家の間で広く読まれるようになり、そこから「自由はゲルマンの深い森の中から生まれた」という考え方が広まるようになりました。

 

【 『萬法精理』(国立国会図書館デジタルコレクションより)】

 

日本で最初に結成された政治結社である高知県の立志社。その立志社の理論家だった植木枝盛(うえきえもり:自由民権運動の理論家)は、「欧州の人が言うには、自由はドイツの深林中より芽出せり。『自由は土佐の山間より発したり』と天下の人に将来言われるように頑張ろう」と、立志社の機関紙『海南新誌(かいなんしんし)』の創刊号に書いたのでした。この植木の言葉に由来する「自由は土佐の山間より出ず」は高知県の詞(ことば)とされていて、この詞が書かれた石碑は、現在の高知市の中心街にある立志社跡の石碑のお隣りに立っています。

 

【 自由は土佐の山間より出ずの碑 (撮影:筆者)】

 

また、現在の長野県松本市を中心に自由民権家として活躍した松沢求策(まつざわきゅうさく)は、教育評論雑誌に『我が地方の自由は師範校(※長野県師範学校松本支校)の森林中より萌生せり』という連載記事を掲載するなどして、「自由は信州の森林より」を実現しようと国会開設運動に取り組みました。同じようにこの考え方に影響を受けて「自由は深い森から生まれる」という意味の『深山(みやま)自由新聞』を創刊したのが、森多平(もり たへい)という人でした。

 

【 『深山自由新聞』(飯田市立中央図書館所蔵)】

 

多平は、現在の長野県飯田市にあった上川路村(かみかわじむら:後に合併して一時期信夫村や竜丘村になる)の庄屋の家に生まれ、18才で庄屋の代役を、22才から庄屋の役を務めるようになり、酒造業にも取り組むようになりました。飯田市と周辺の下伊那(しもいな)郡の地域は、長野県の最南端に位置しています。また中央を流れる天竜川に沿って南北に広がる盆地であり、周囲を深い森林に囲まれたこの地域は、伊那谷(いなだに)という呼ばれ方もされてきました。

 

【 現在の飯田・下伊那地域 赤色の部分(Wikipediaよ り) 】

 

明治維新となって戊辰戦争が始まると、旧幕府、新政府の両者がばく大な軍事資金を調達するために、二分金(にぶきん)という貨幣の品質を落とした「新二分金」を大量に鋳造します。この「新二分金」を薩摩藩の蔵屋敷から約1万両受け取った、小林重助という近江商人は、飯田・下伊那地域の取引先の商人たちのもとへ流通させます。しかし、このようなニセ金とも言える「新二分金」が流通することによって物価は高騰し、農民や庶民の生活を直撃することとなりました。

当時の飯田は、日本髪や髷(まげ)を結うために使う元結(もとゆい:米ノリから作るヒモ)の生産が盛んで、多くの元結職人たちが生活していました。しかし、「新二分金」が出回ったことによって原料となる米ノリが値上がりしたため、職人たちは深刻な打撃を受けてしまいます。この元結職人たちによって、地元の商人が「新二分金」を運んでいる現場がおさえられ、怒りに燃えた職人や農民たち約6百名は、飯田城に押しかけて、商人の取り締まりと「新二分金」の引替えを要求します。

 

【 二分金 (Wikipediaより)】

 

また、それとは別に約千5百名の職人・農民たちが、「新二分金」を扱っていた地元商人宅や、近江商人が泊まっていた宿などを打ちこわし、翌日には約1万3千名もが参加する大規模な騒動に広がります。飯田騒動と呼ばれるこの騒動に庄屋だった多平も参加します。多平は、打ちこわしのような暴力行為には否定的でしたが、商人たちの不正な行為には厳しく対決する立場を取って、過激な行動に走らぬように農民たちを説得する役割を果たしたようです。結果として、飯田藩は商人の取り締まりと「新二分金」の引替えを行なうことを回答し、「新二分金」を扱った商人18名が検挙されて、騒動は治まることとなりました。

その後こうした騒動は、現在の上田市、松代市、須坂市、中野市といった周辺各地に広がり、各地でその首謀者とされた人物たちが、斬首といった処罰を受けることとなりますが、飯田地域においては、そうした被害者は出さずにすむこととなったのでした。

 

その2年後には廃藩置県が行われ、現在の長野県の地域には、長野県と筑摩(ちくま)県が置かれることとなり、飯田・下伊那地域は筑摩県となって、飯田城に飯田支庁が置かれることとなりました。その2年後、明治政府は地租改正令を公布して、全国で地租改正の事業が取り組まれることとなります。地租改正の主な内容は、①これまでの物納から、金納とする。②収穫量ではなく、収穫力に応じて決められた地価の3%を地租額とする。③耕作者ではなく、土地所有者を納税者とするというもの。そして、地租の算出基準となる地価は、①測量によって確定する田畑の面積量、②収穫高の見込みに基づいて決める田畑の等級、③種もみや肥料代などを必要経費として設定する割引率、この3つの要素の組み合わせによって算出されました。

 

【 飯田支庁や下伊那郡役所の正門として使われた赤門 (撮影:筆者)】

 

筑摩県の飯田支庁管内では、この地価を算出するにあたって、③の割引率を、②の田畑の等級に応じて設定する方法が採用されました。それは、等級の低い田畑ほど肥料代などは必要となるので、等級が低くなるにしたがって割引率を高くしていくという方法でした。まずは、最高の等級の田畑の割引率を30%と設定し、一等級下がるごとに2.5%ずつ割引率を増加させていき、最低の15等級の田畑の割引率は65%とするものでした。明治政府は一律15%の割引率を設定するよう求めていましたが、それに対して農民の負担が軽くなるのが、この割引率の設定方法だったのでした。

しかし、それでは政府指定の割引率を採用した他の地域との差が生まれてしまうため、県の地租改正事務局は、アゼや石塚といった収穫できない土地も面積に算入したり、架空の収穫量を水増しするなどの操作を行なって、他地域との差が出ないように工作しました。ところが、政府はこの独自の割引率の設定方法を認めず、15%の割引率を一律に強制するように命じます。すると、アゼや石塚などを含めて面積が増やされていたところに、割引率が減らされてしまったため、当然のことながら飯田・下伊那地域の地価は他の地域に比べてはるかに高い値段となってしまいます。その結果、一反(いったん:約300坪)当たりの平均価格が、長野・筑摩県で約25円ほどだったのが、飯田・下伊那地域では約34円にもなってしまったのでした。

この現実に対して地元の農民たちは、測量のやり直しとそれに基づく地価修正を求める運動を起こしていくことなりました。多平は自分の地元の村など六か村の意見をまとめて、地価修正の歎願運動を行なっていく準備を進めていきます。そうした中で、その頃東京にあった、東京北洲舎(ほくしゅうしゃ)という代言人(現在の弁護士)の法律事務所を多平は知ることとなります。

 

土佐藩出身で明治維新に貢献した島本仲道(しまもとなかみち)という司法省の官僚が、江藤新平(えとうしんぺい:佐賀藩出身の明治維新のリーダー、司法卿などを務める)の右腕として司法制度の確立に尽力した後、江藤や板垣退助(いたがきたいすけ:土佐藩出身の明治維新のリーダー)が政府から下野した際に司法省を退職します。島本は、土佐で板垣たちによる民権結社・立志社の結成に参加して、立志社内の法律研究所の設立に関わります。その後東京に戻る際に立ち寄った大阪で、すでに大阪で法律事務所として活動していた北洲舎のメンバーと関係を深めて、北洲舎の舎長として招かれます。その後島本は東京に戻って、東京北洲舎を開いて法律活動を行なっていたのでした。

 

【 江藤新平 (国立国会図書館「近代日本人の肖像」より )】

 

多平は東京北洲舎を訪ね、歎願運動の進め方を島本に相談します。北洲舎と仮契約を結んだ多平はいったん地元に戻り、まずは長野県令(現在の県知事。筑摩県は長野県と併合し、廃県となっていました)と直接会って、地租の軽減を求める嘆願書を提出します。その後、県令あてに3度建言書などを提出しますがいずれも却下。多平は北洲舎への依頼の件などについて地元の村々の意見をまとめていく中で、東京から派遣されてきた北洲舎の舎員の提案を受けて方針を変え、県ではなく政府の地租改正事務局に直接訴えていくこととします。そして、多平をふくむ3人が上京して、北洲舎で議論した上で原稿を作成して、地租改正事務局に嘆願書を提出しました。

嘆願書の内容は、最初に県が指示した割引率の設定方法と大蔵省の割引率の設定方法によって算出される金額を比較した表を添付し、測量の際に石塚なども田畑に含めるように県が指導した事実をあげるなど、単にお願いするのではなく、事実に基づいて冷静に農民側の意見を主張するものでした。その後の地租改正事務局との交渉の過程では筑摩県から、周辺の村々の一反当たりの金額をまとめた表が提出されて、農民側が主張する飯田・下伊那地域の地租の不当な高さを裏付けることとなりました。

そして、多平は地租改正事務局や内務省に出向いて交渉を行ないます。その結果地租改正事務局から現地への視察出張が行われることとなり、最終的に地租改正事務局は土地の再測量を行なうことを約束するに至ります。このように多平たちは、飯田騒動の時とは違って、北洲舎という法律事務所の支援を受けながら、事実と法理に基づく粘り強い交渉を重ねた結果、土地の再測量を実現させたのでした。

再測量の結果、どれだけの減租=減税が実現できたのかはハッキリとは明らかになってはいません。しかし、当時の伊那郡全体で約300町(約300ha東京ディズニーランド6つ分)もの面積が差し引かれたとも言われているので、多平たちの理性的で粘り強い努力の結果、かなりの地租軽減=減税を実現できたのではないかと思われます。

 

こうして、自由民権運動の中から生まれた法律事務所である北洲舎との連携を通して、地租の軽減を実現した多平は、自由民権運動を広げていくためのメディアとして各地で生まれていた新聞を、飯田の地で創刊することを決意します。

 

【 『深山自由新聞発起趣意』 (飯田市教育委員会『飯田・上飯田の歴史』より)】

 

多平は、「日進月歩の世の中で、この地方は人智も開けず民権も興らない。井の中の蛙で、権利・自由の何たるかも知らない。そこで新聞を発行することで、この地方を文明開化の域に進ませよう」という内容の『深山自由新聞発起主意』を作成。そして、「私はもとより微力な一人の人間である。どうやってこの大事業を起こすことができるだろうか。幸いにして有志諸君の助けを得られる。」として、「総計三千円を三百口に分けて一口十円」で資金を募集することとしました。多平は、地租軽減運動を一緒に戦った仲間や、旧飯田藩時代の豪農や豪商から資金を集め、809名の株主を集めることに成功します。

また多平は『趣意』の中で、「二日に一度これを刊行してなるべく安い値段で売り広め、富める人であっても貧しい人であっても買い求めやすい」ようにするので、「願わくば男子であれば耕作の余暇に」「女子であれば紡績のかたわらに」「この新聞を読んでほしい」と訴えました。つまりこの『深山自由新聞』が、一部の裕福な人や知識人だけでなく、男女を問わない農民大衆に読んでもらうことを多平は願っていたのでした。

 

【 当時の時又港と現在 (天竜川総合学習館かわらんべHPより)】

 

こうして多平は、集まった資金を元に新聞を発行する会社として公道社を設立。上京して、印刷機械一式や活字11万個を購入。それらを東海道の陸路で天竜川まで運び、そこから舟で運んで時又港(ときまたこう:現在の飯田市内)から陸に上げて、飯田の町まで運びました。

また、福沢諭吉を中心として設立された交詢社(こうじゅんしゃ:現存する日本最古の社交クラブ。憲法草案の作成なども行なっていた)を訪れ、福沢と同じ中津藩(現在の大分県中津市)の出身で福沢と共に活動していた小幡篤次郎(おばた とくじろう)に相談して、慶應義塾出身者を編集人として紹介してもらいます。

 

【 東京銀座にある現在の交詢社ビル (撮影:筆者) 】

 

そして多平は、創刊号に載せた「深山新聞社創立の主意」という社説の中で、「ヨーロッパのゲルマンは我らが信州の如きなり。ゲルマン人の勇敢は我ら信州人と相似たり」として、ヨーロッパでの自由がゲルマンの深い森の中から生まれたように、信州の森林から日本の自由を発達させていこうと熱く訴えたのでした。

こうして発行された『深山自由新聞』の部数は、300~1000部ほどだったと推定されているようです、1万部以上の発行がなされた時もあり、多くの人々の関心をよんだことは事実のようです。また購読者のエリアも、東京・京都・大阪・新潟・愛知・山梨・静岡・神奈川など極めて広い範囲に広がっていたようです。

この「深山自由新聞」はタブロイド判(現在の一般的な新聞の半分のサイズ)4ページで作られていて、1面に政府や県の情報や社説、2・3面に「雑報」と称する様々なニュースや投書、4面に物価や広告が掲載されていました。うなぎ料理やすし料理の広告はなかなか興味深いものがあり、米や大豆やお茶の物価には関心が高かったことが分かります。

 

【 『深山自由新聞』広告・物価記事 (飯田市立中央図書館所蔵) 】

 

また、飯田市立中央図書館で保存されている『深山自由新聞 17号』では、「民権家と民情家の区別」という社説が掲載されていました。その中では、江戸時代の(さくらそうごろう:重税に苦しむ農民のために直訴をおこなって処刑されたという義民伝説の主人公)や大塩平八郎(おおしおへいはちろう:天保の大飢饉で貧窮していた庶民のために幕府への反乱を起こした陽明学者)などは、生活に困ってしまった民衆を救済しようという情実から動いた民情家だった。しかし、アメリカの独立戦争を戦った者たちは、税金を払う能力が無かったから立ち上がったのではなく、議会に代表を送る権利もないのに税を納めることだけを求めるイギリス政府の非法や不適切な行為に対して民権を守るために戦ったのであって、これを民権家というべきである。日本国民は、この民情家と民権家を区別すべきであり、私たちは真正の民権家であろうとすることを志望している」という内容が語られています。このように『深山自由新聞』の社説は、自由民権思想を訴えたものが大部分だったようです。

 

【 『深山自由新聞』社説「民権家と民情家の区別」 (飯田市立中央図書館所蔵) 】

 

そして、当時の飯田・下伊那地域では政談演説も流行して、『深山自由新聞』の編集者たちも各地の演説会で演説をし、ある時は約9百人もの人が押し寄せたという様子などが新聞紙上で伝えられたようです。このようにして、『深山自由新聞』や演説会などを通して飯田・下伊那地域でも自由民権運動がおおいに盛り上がったのでした。

しかし、多平が望んだように「男子が耕作の余暇に、女子が紡績のかたわらに」新聞を読むという状況は実現できず、経営難のために約1年、第107号を最後に『深山自由新聞』は廃刊に追いこまれてしまいました。以後、多平は自由民権運動から離れていくこととなりました。

 

【 飯田市内永昌院に残る坂田哲太郎の墓(撮影:筆者)】

 

『深山自由新聞』の第3代編集人だった坂田哲太郎(さかたてつたろう:熊本県の士族出身)は、その後愛国正理社という政治結社に参加。松方デフレによる不景気の中で借金に苦しむ元結職人や農民たちに対しての、法律知識を使っての支援活動を行なって、2000人を超える民衆を組織しましたが若くして病死してしまいました。その後に愛国正理社は、愛知県の民権家たちが計画した(飯田の人間は1人を除いてほとんど関与していなかった)激化事件の一つである飯田事件に巻きこまれて崩壊してししまいました。

 

【 『深山自由新聞』の題字 (飯田市立中央図書館所蔵) 】

 

しかし、多平たちが法理を尽くして国と粘り強く交渉した結果、地租軽減を実現したこと。「自由は深い森の中から生まれた」という言葉にロマンを感じて、『深山自由新聞』を発行し続けたという歴史は、現在も事実として残されています。飯田城の隣りにある中央図書館を訪れると、データ化された『深山自由新聞』を閲覧することができます。静かな図書館の中で、その題字を眺めながら、伊那谷と呼ばれた森深き地にもこうした明治の先人たちの足跡がくっきりと残されているのだということを、強く感じさせられた次第です。

自由民権現代研究会代表 中村英一

 

【 参考文献 】

『飯田・上飯田の歴史』飯田市教育委員会

『図説 飯田・下伊那の歴史』郷土出版社

『飯田・下伊那新聞雑誌発達史』後藤総一郎 南信州新聞社

『三河民権国事犯事件と飯田地方の自由主義思潮(上)-「深山自由新聞」をめぐる史料と史論-』北原明文 清泉女学院短期大学研究紀要第23号

『伊那の自由民権と深山自由新聞』吉沢泰 「歴史公論」1976年1月号 雄山閣出版

『下伊那の民権家 森多平論1~4』梅村佳代 『伊那』伊那史学会

『下伊那の百年』 下伊那地域史研究会 信毎書籍出版センター

『長野県の歴史』 山川出版社

『長野県の百年』 山川出版社

『法の精神』 モンテスキュー 岩波文庫