自由民権運動の壮士たち 第16回 『輸出規制の鉄門を打破した男 胎中楠右衛門(たいなか くすうえもん) (神奈川県)』


【 胎中楠右衛門 『胎中楠右衛門の片鱗』より 】

 

東京にある地下鉄銀座線の田原町(たわらまち)駅から歩いて5分くらいの所に、東本願寺という浄土真宗のお寺があります。このお寺を訪ねると、境内に「憲政碑」と書かれた大きな石碑があるのが目につきます。憲政の発展のために貢献した約2300名もの人を祀ったという、この「憲政碑」を建立(こんりゅう)したのが、若き頃に自由民権運動に参加した衆議院議員・胎中楠右衛門(たいなか くすうえもん)という人でした。

 

【 浅草・東本願寺境内に立つ憲政碑(撮影:筆者) 】

 

胎中は、高知県安芸(あき)郡安芸町の出身。相撲やケンカが大好きな、暴れん坊だったため、高知へ奉公に出されますが、そこで満足できずに大阪や岡山などを放浪し、10代半ばで上京します。しかし病気で体を崩したため高知に戻ろうとして、神奈川県の愛甲郡厚木町(現在の厚木市)まで無一文で歩いていた時に知り合った博徒(ばくと:ばくちを職業としていた者)の大親分の下で生活するようになります。その内に、自由党の壮士(そうし:自由民権運動の活動家)たちと知り合い、その仲間になったと言われています。後年の本人の談話によると、出身の高知県では板垣退助が神様のように扱われていたので自由民権運動に関心があったため、当時「三多摩壮士」と呼ばれた民権家たちの活動に参加していったようです。

ちょうどその頃に第2回総選挙が行われて、政府は警察を使って、民党(自由民権運動側の政党)に対する大々的な選挙妨害を行ないます。それに対して民党の側も抵抗し、全国で死者25人、重軽傷者約400人もの被害者が出る騒ぎとなりました。こうした中で、選挙戦において暴力が公然と行われる風潮が生まれ、そこから自由党と立憲改進党という民党同士の間でもいわゆる「内ゲバ」が行なわれるようになってしまいました。

 

【 青年時代の胎中 (『胎中楠右衛門の片鱗』より) 】

 

こうして神奈川県では、知事の指示の下に警察による激しい弾圧が行なわれました。そのため選挙後には、県会の場で民党勢力がこの責任を厳しく追及して、知事と警察の責任者の罷免を求める案を圧倒的多数で可決します。これに対して知事は県会を解散して、突然県会議員選挙が行われることとなりました。胎中がいた高座郡(こうざぐん:現在の綾瀬市、海老名市、相模原市の一部、座間市、茅ヶ崎市、藤沢市の一部、大和市)では4つの議席をめぐって、自由党の候補者4名と立憲改進党の候補者4名が選挙戦を展開。その結果、自由党3名、立憲改進党1名が当選することとなりました。

しかし、立憲改進党の側が開票事務に不正があったとして選挙のやり直しを求め、高座郡だけ再選挙が行わることとなります。自由党は、石阪昌孝(いしざかまさたか:三多摩地域の自由党のリーダー)や村野常右衛門(むらのつねえもん:石阪の腹心。詳しくは『自由民権運動の壮士たち第15回』を参照)らが県内の三多摩壮士を率いて選挙戦に参加。一方の立憲改進党も、島田三郎(しまださぶろう:新聞記者から立憲改進党に参加。横浜市選出の衆議院議員として連続14回当選)が選挙の指揮を担って対抗します。

 

【 星亨 (国立国会図書館「近代日本人の肖像」より) 】

 

こうした激しい選挙戦が行なわれる中で自由党の側は、板垣退助(いたがきたいすけ:自由党創設者)や星亨(ほしとおる:自由党のリーダー)らの党幹部を東京から招いて演説会を開きます。そして、星を招いて開かれた自由党の演説会に、立憲改進党の壮士たちが押し寄せ、両派の約2百人の壮士たちがピストルを撃つなどしてぶつかり合うという、今日では考えられないような事件が起きます。この事件をきっかけとして両派の抗争はエスカレートし、「高座郡の血戦」などと報道される事態となってしまいました。この際に胎中は、その暴れん坊ぶりを発揮して、星や村野にその存在を知られるようになったと言われています。

 

【 耕余塾跡 (撮影:筆者)】

 

そうした中から胎中は、現在の藤沢市にあった耕余(こうよ)塾で、小笠原東陽(おがさわらとうよう:明治時代前期の教育者。詳しくは『自由民権運動の壮士たち第15回』を参照)から学ぶ機会を得て、学問に専念する時期を過ごします。東陽は塾生に対して「人は天の民であって、人は何者からも束縛されず自由である)」とよく語っていたといいます。こうした自由な思想での教育が行われた耕余塾からは、後に自由民権運動を担う民権家たちが、胎中や村野を含めて30人以上育っていくこととなりました。

その後胎中は、星の選挙区である栃木県宇都宮市に移り、星の選挙を手伝いますが、ここでも暴力事件を起こして約10カ月入獄。その後、アメリカ公使として渡米した星と一緒にアメリカへ渡ることとなります。こうして胎中の暴れん坊の時代は終わりを告げることとなりました。

 

【 小笠原東陽 (藤沢市明治市民センター内明治郷土史料室展示資料より 撮影:筆者)】

 

それ以後約20年間を、胎中はアメリカで過ごします。その間に星は暗殺されてしまい、その後継者となった原敬(はらたかし)が総理大臣となった時に、立憲政友会の衆議院議員だった横田千之助(よこたせんのすけ)に誘われて胎中は帰国します。横田は、星の書生として働きながら東京法学院(現在の中央大学)で学んで弁護士資格を取得。その後、星の法律事務所で弁護士を務めながら、立憲政友会の結成に星と共に参加します。星が暗殺された後は、立憲政友会の第2代総裁西園寺公望(さいおんじきんもち)や第3代総裁となった原の信任を得て立憲政友会の幹事長を務め、原内閣では法制局長官として入閣したのでした。

 

【 横田千之助 (国立国会図書館「近代日本人の肖像」より) 】

 

ところで、第一次大戦で勝ったアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの5ヵ国では戦後も海軍の軍備増強が続けられ、各国の財政を大きく圧迫するようになっていました。そこで、5ヵ国での海軍の軍縮を図っていくための国際会議が、アメリカの提案によってワシントンで開かれることとなります。

当時の原内閣は、高等教育の充実、交通の整備、産業・貿易の奨励、国防の充実という「四大政綱」を掲げ、総選挙で圧倒的な勝利をおさめていました。原が「国防の充実」を四大政綱の一つに掲げたのは、それによってまずは陸海軍との対立を避けながら、この第一次大戦後の軍縮の流れに乗って国防費の増加を抑えて、教育・交通・産業に予算を投入していくことを狙っていたからでした。したがって、ワシントンでの軍縮会議は、原内閣が掲げた「四大政綱」を実現していくための、非常に重要な会議となったのでした。

 

【 原敬 (国立国会図書館「近代日本人の肖像」より) 】

 

この会議に胎中は、原の命を受けて参加します。胎中は、横田に同行して全権団の1人として渡米。約20年アメリカにいて、アメリカの事情に詳しかった胎中は、ワシントンとニューヨークを往復して情報を集め、その情報を全権団の交渉に生かす役割を果たしたと言われています。しかし、会議が始まる直前に、原は東京駅で暗殺されてしまったのでした。

 

【 東京駅丸の内南口改札近くにある原首相遭難現場 (撮影:筆者) 】

 

原の後を継いだ高橋是清(たかはしこれきよ:「ダルマさん」の愛称で親しまれ、大蔵大臣としての手腕が高く評価される)内閣は短期間で倒れて、その後は非政党の内閣が続くことになります。そこで、政党内閣の復活を求める第二次護憲運動が起こり、胎中はその運動の中で活躍します。この活躍で立憲政友会内での評価を高めた胎中は、次の総選挙で神奈川県西部で選挙戦に挑みますが、わずか9票差で惜敗。その年の夏の高知県(出身地の安芸郡など)の補欠選挙でも落選してしまいます。しかし、初めての普通選挙(25才以上のすべての男性が投票権を持つ)となった第16回総選挙で胎中は初当選し、以後3期連続当選しました。胎中が衆議院議員を務めたこの昭和初期の約8年間は、世界恐慌から始まる深刻な不景気に陥った時代でした。

 

【 五・一五事件を伝える新聞記事 (Wikipediaより) 】

 

この不景気の打開と、国民の生活を安定させるために、胎中は地方での農業や漁業の振興に積極的に取り組みます。しかし、不景気が長く続く中で政党政治への批判が高まっていった結果、海軍の青年将校たちが総理大臣官邸を襲って犬養毅(いぬかいつよし:立憲改進党員として自由民権運動に参加)首相を殺害するという五・一五事件が起きてしまいます。こうして第二次護憲運動によって復活して以来続いてきた政党内閣は、残念ながら途絶えることとなってしまったのでした。

 

【 神奈川県海老名市に残る憲政碑 (撮影:筆者) 】

 

こうした状況に強い危機感を抱いた胎中は、神奈川県海老名村(えびなむら:現在の海老名市)にあった自分の別邸内の丘(現在、国指定史跡とされている秋葉山古墳)の上に、憲政碑を建立します。それは、政党批判の世論が高まる現実の中で、自由民権運動の時代から憲政と政党政治の発展に尽くしてきた地元の先人たちをたたえ、その意義を復権させることを目的としていました。

胎中が書いたその碑文では、「自由民権運動による国会開設運動によって、国会の開設が決まり、憲法が制定されて日本の憲政は始まった。自由党、立憲改進党が結成されて藩閥政府に対抗したが、両党の対立を政府に利用されるなどして苦心が続いた。神奈川県の有志は、石阪正孝、村野常右衛門などを始めとして中央や地元で奮闘して、憲政の発展に貢献した」とこれまでの歴史を説明。その上で、「確かに現在までの憲政の運用には遺憾な点がある。最近の政党への批判の声を聞くと、先輩方に申し訳なく思う。この碑を建てることによって先人の功績をしのび、これからの人たちが憲政のために奮起することを希む」といった内容で、これまでの先人の歴史を踏まえた上で、後進の人たちが憲政を発展させていってほしいという、胎中の切なる希望が語られています。

 

【 海老名市の憲政碑の碑文 村野常右衛門などの名が読める (撮影:筆者) 】

 

それから胎中は、立憲政友会の有志議員約30名と「国政一新会」という会を結成して、政党を立ち直らせるための政党更生運動を始めます。胎中は『政党の更生を説いて時務に及ぶ』というパンフレットを制作して関係者に配りました。その中で胎中はまず、「私は政党政治の存亡、議会政治の危機がいよいよ眼前に、脚下に迫って来たことを痛感する。政党は今において立ち直らなければならぬ」と危機感を表明します。

そして、「政党を抑圧し、国民大衆の感情を圧迫して、無理に国論を統一しようとしてもできるものではない」「日本において、議会政治否認とかファシズムに憧れるのは言語道断である」とした上で、「ただそれも政党の堕落、政党政治家の責任と言われればそれまでであり、それ故私たちはまず政党の更生を求めるのだ」と主張します。

 

【 『政党の更生を説いて時務に及ぶ』 (国立国会図書館デジタルコレクションより)】

 

それから、「政党政治家は地位を求める餓鬼だ」という世間での政党への批判を取り上げ、「自分が親しくしてもらった某先輩はある時大臣に推薦されたが、『自分はその材ではない。他に適材はいくらもあるからそれらの人を推されたい。もし強いて私を推されるのなら私は議員を辞して政界から退く』と言って固辞した」「これが政党人の本来の心である。政党人、政党政治家の信念をこういう風に叩き直すことが政党の浄化、政党政治家の更生なのである」と実例を挙げて反論します。これは、原内閣が組織された時に、閣僚就任を原から要請された村野が、それを断った事実に基づく主張でした。

 

 

【 村野常右衛門 (Wikipediaより)】

 

その上で、「みだりに政党を排撃すべきでなく、更生さすべきであり、鞭撻(べんたつ:強く励ますこと)し協力して、その本来の使命を達成させるべき」であり、そのためには、更生できない政治家は「次の選挙において落選させるがよい」と胎中は主張します。

そして、「国民はその自由意志によって、如何なる政治家をも政治的に生かすことも殺すこともできる。国民が憲法によって与えられた貴重な一票を正しく勇敢に行使するとき、自然と政治家を善導し、政党を更生させることも出来るのだ」として、政党を更生させるのは政治家ではなく、あくまでも国民の力なのだと結論づけました。これは、現在の日本にも通ずる考えなのではないかと思えます。政党や議会政治を更生させるのは、あくまでも私たち国民一人ひとりの声であり、国民一人ひとりの力なのだと。

 

【 二・二六事件を起こした陸軍将校たち (Wikipediaより) 】

 

こうした胎中の政党更生運動は、政界の一部では一定の反響を呼びますが、残念ながら大衆的には広がりませんでした。その結果、陸軍青年将校らによって元立憲政友会総裁だった高橋是清(たかはしこれきよ:「ダルマさん」の愛称で親しまれ、大蔵大臣としての手腕が高く評価される)大蔵大臣らが殺される二・二六事件が起きてしまいます。そうした中で胎中は、全国レベルでの憲政への功労者を記念する石碑の建立を決意します。

 

【 現在の浅草・東本願寺 (撮影筆者) 】

 

胎中が新たに憲政碑を建てた場所は、「日本の憲政発祥の聖地」ともいわれた浅草本願寺(現在の東本願寺)でした。自由民権運動が始まった頃、明治政府のリーダーだった大久保利通(おおくぼとしみち:薩摩藩出身)は、政府から離れていた木戸孝允(きどたかよし:長州藩出身の明治政府の初期のリーダー)や板垣と話し合いの場を持ち、将来の憲法制定と議会設置の方向性を約束します。そして、議会に代わる機関として、当面は各地の県令(現在の県知事)などによる地方官会議を開くこととし、その最初の地方官会議が開かれたのが、浅草本願寺だったのでした。

胎中は、大日本相撲協会の協力を得て碑石を準備し、憲法の起草者としてただ一人健在だった金子堅太郎(かねこ けんたろう:大日本帝国憲法の起草に関わり、日本法律学校⦅現在の日本大学⦆の初代校長を務める)に題字を書いてもらいます。

 

【 「之奉公」の部分が欠字となった憲政碑の碑文 (撮影:筆者) 】

 

しかし、胎中が書いた碑文の、「財産を投げ打ち、命をかけて、憲政のために活動した政党政治家たちの貢献と、国家の給与で生活している役人、官僚の奉公とは同じものではない」という「官」を批判した部分に、警視庁からクレームがつけられます。そして交渉の結果、「之奉公」の3字が削られることとなってしまいました。そうした時代状況の中でも、憲政碑の除幕式には多くの人が集まりました。

 

【 浅草・東本願寺での憲政碑の除幕式で演説する胎中 (Wikipediaより) 】

 

特に、海老名の憲政碑の除幕式の際に集まったのは、立憲政友会関係者が中心でしたが、今回は内閣、衆議院・貴族院の両院、立憲政友会・立憲民政党の政党といった、党派を超えた憲政の関係者が集まりました。そして、胎中のあいさつの後には、近衛文麿(このえふみまろ:第34・38・39代総理大臣を務める)首相から送られた、「憲政の先覚者、功労者に対し敬意を表すると共に、その英霊が憲政の前途を加護してくれることを祈る」とする祝辞も読み上げられました。

 

【 斎藤隆夫(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より) 】

 

しかし、その後の近衛は、国家総動員法(戦争に勝利するために、全ての人的・物的資源を政府が強権的に統制できるとした法律)の成立をめぐって、立憲政友会や立憲民政党と対立します。立憲政友会から出された「国民のために国防が存在するのであって、国防のために国民が犠牲にされるのではない」という意見に対して、近衛は「国防は国家のために存在する。国民も国家のために存在する」と応ずるなど全体主義色を強めていきます。軍の政治関与を批判する「粛軍演説」や「反軍演説」で有名な斎藤隆夫(さいとうたかお:立憲民政党所属の衆議院議員。「反軍演説」で衆議院を除名されるも、その後の選挙で返り咲く)もこの法案を批判する演説を行ないますが、結果として国家総動員法は成立。その後いったん辞職した近衛は、ナチスドイツがヨーロッパで勢力を広げていく状況を受けて、政党を解消させて新しい政治体制を築く「新体制運動」を提唱します。

こうした時流によって政党が次々と解党していく中で、第二次内閣を組織した近衛は組閣翌日のラジオ演説で、「(政党は)その立党の主旨が、自由主義や民主主義や社会主義などであって、その世界観、人生観が国体と相いれない」などとして激しく政党を批判します。そしてこの演説内容を知った胎中は、すぐさま近衛に手紙を送ります。

 

【 近衛文麿(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より) 】

 

その中で胎中は、「もし閣下(近衛)が申されたことが真実ならば、自由党を創った板垣退助、これを立憲政友会として建て直した伊藤博文(いとうひろぶみ:初代内閣総理大臣を務める)、立憲改進党を起こした大隈重信(第8、17代内閣総理大臣を務める)、これを立憲同志会として建て直した桂太郎(かつらたろう:第11、13、15代内閣総理大臣を務める)も、国体と相いれない乱臣賊子(らんしんぞくし:国を乱す臣と親にそむく子)と申すべきなのか」と批判。

さらに、「閣下は約2年半前(憲政碑の除幕式)においては、極めて常識に富める政治家として、憲政の先覚者の功績を充分に認められていたのに、今やこれを国体と相いれぬ乱臣賊子と見なされる。閣下の御心境はどうしてこのように変化されてしまったのか。このように常に変わっていく御心境で、新体制を樹立しようとするのには、憂慮せざるを得ません」と問いかけます。そして、「閣下の新体制樹立に天下が共鳴するとしても、小生一人は絶対に共鳴しません」として、当時国民大衆に人気のあった近衛に対して敢然と反省を求めたのでした。

 

【 現在の真鶴漁港 撮影:筆者 】

 

このように、自由民権運動から続いてきた憲政を守るための活動に力を注いだ胎中でしたが、選挙区内にあった真鶴(まなづる:現在の神奈川県真鶴町)の地での、農業や漁業振興のためにも活躍しました。当時の真鶴村は水不足に悩まされていて、関東大震災の時には消化活動のための水がなくて、土をかけて消火活動をしたというエピソードも残っているほどでした。こうした中で複数の場所で水道の水源が探されましたが失敗。最後の望みをかけた海岸近くの湧水は、県の検査によって不適格とされてしまいます。真鶴村の村長と親しかった胎中は、村長と共に県を訪れて粘り強く交渉し、水道の認可を得ることに成功します。

 

【 当時の水源地跡 撮影:筆者】

 

また、関東大震災で大被害を受けた真鶴漁港の修築も、緊急を要する大きな課題となっていました。これは、真鶴の地元漁業者だけでなく、小田原から静岡県の東伊豆地方に至る広い範囲の漁業者にとっても必要とされた事業でした。しかし、地元予算だけでは到底不可能だったため、農林省からの国庫補助を求める必要がありました。胎中はこの交渉を手助けし、様々な工夫と紆余曲折の末に真鶴漁港は修築されることとなったのでした。現在の真鶴漁港の入口付近には真鶴漁港修築の記念碑が立てられていて、その碑文では胎中の貢献もたたえられています。

 

【 真鶴漁港の碑 撮影:筆者 】

 

このように地域での農業や漁業振興に力を尽くした胎中にとって、最も大きな課題となったのが、アメリカ・カナダへのみかんの輸出規制の問題でした。アメリカ向けへのみかんの輸出は、静岡県では明治時代前半から始められていましたが、真鶴などでは大正時代初期からミカンの栽培が始まり、小規模ながらアメリカへの輸出も始められていました。しかし、明治時代の終わりに政府によって、輸出業者によって構成される「日本柑橘北米輸出組合」が発足されます。そして、重要物産同業組合法という法律に基づいて、カナダ・アメリカ向けのみかんを輸出する権利はこの組合に独占されることになってしまいました。

輸出組合は政府の規制の下に取扱い量を制限して価格を維持し、組合に加盟している輸出業者たちの利益を保つようにしたため、生産者たちには利益が回ってこないという状況になってしまっていました。しかし、昭和初期から国内の不景気が続く中で、みかんの価格は低迷し、生産者たちは海外への輸出拡大に期待します。こうした中で、全国各地の生産者たちから、販路拡張や生産者側が輸出権を獲得することを求める声が湧き上がってきたのでした。

 

【 胎中楠右衛門の胸像 (真鶴町 石の広場 撮影:筆者) 】

 

こうして、生産者側に直接輸出の門戸を開放していくための、組織結成が計画されます。その中で積極的に動き出した神奈川県の生産者組合は、「カナダ・アメリカへの輸出権の問題の対策について、日夜腐心を重ね、本県選出の代議士を通じて政府に猛運動を開始した。胎中代議士が、全国柑橘生産者のために質問書の提出や、交渉した結果、当局から有利な返事を得るに至った」という内容の手紙を全国の生産者団体に送ります。

こうして輸出権の獲得を求める運動が進んでいることを実感した各地の生産者団体では、「日本柑橘北米輸出組合が、輸出に対する独占的立場で、不当な中間搾取をするのを承認することはできない。これに対抗するために大日本柑橘生産組合連合会を設立する」といった決議をあげて、直接輸出を求める生産者の組織が結成されるに至ります。

 

【 胸像の台座碑文に記された大日本柑橘生産組合連合会の文字 (撮影:筆者) 】

 

連合会では上京して関係官庁に設立趣旨を説明。「わずか約50名の輸出組合が、カナダ・アメリカでの実際の需要を無視して、供給の制限をして価格のつり上げを図り、不当な収益を貪っている」と輸出組合を批判する陳情書を提出します。さらに、「我々の求めるところは公正なる価格による販路であり、消費の増加による生産過剰の緩和である。我々全国生産者大衆は、輸出の独占を開放し、公正な価格による自家輸出の実現を要求する」という内容の声明を発表します。こうした陳情書や声明文は、新聞にも大きく取り上げられて、関係各方面に大きな反響を巻き起こすこととなりました。

そして生産者たちの要請を受けた胎中は、「もし生産者が直接カナダ・アメリカへ輸出ができたとしたら、現在に数倍する利益と販路の拡張も可能になるだろう。しかし、輸出組合は堅く門戸閉ざしている。このような事業の独占を、国益の名のもとに存在を許していいものであろうか。不合理といえば、これほど不合理な話はない。政府はこうした輸出組合の独断専横をどのように考えているのか」といった内容の質問書を政府に対して提出して、政府による規制を緩和せることを求める運動を盛り上げていきます。

 

【 胸像の建設委員となった全国の生産者の氏名 (撮影:筆者) 】

 

このような生産者農民大衆と胎中たちが一体化した熱気ある運動を受けて、政府は制度を根本的に検討することを約束。さらに、暫定の措置として全体輸出量の約4分の1を生産者側に分配するように政策を変更します。こうして、長年堅く閉ざされていた輸出規制の堅き門が一部とはいえ、とうとうこじ開けられることとなったのでした。

その後全国の生産者たちは、この輸出規制の緩和における胎中の功績をたたえるために、真鶴の地に銅像を建てることとなります。神奈川県、静岡県、和歌山県など全国の生産者たちが建設委員となって、この銅像は作られますが戦争中に供出されてしまい、その後に真鶴町が作った石像が、当時の台座の上に現在も立てられています。

台座の側面には全国の建設委員たちの名前が彫られており、裏面には「衆議院議員胎中楠衛門君は、至誠熱血の国士なり。その渾身の力を振るって輸出独占の鉄門を打破し、直接輸出の進路を開き、全国生産者の福利を増進するのに多大な功績をなした」という内容の碑文が刻まれています。

 

【 胸像の台座碑文に記された「鉄門を打破」の文字 (中央下部 撮影:筆者) 】

 

胎中が提唱した政党を更生させる運動は、国民大衆と一体化できないままに終わったことによって、残念ながら政党の解散と全体主義を招く結果となってしまいました。しかし、みかんの生産者大衆と一体化した輸出規制の緩和を求める運動は、見事に実を結んで規制の鉄門を打破し、輸出市場における自由を一部実現したのでした。

「官」が肥大化し、各方面での規制が強化されていく一方で、増税が繰り返されていく現在の日本。その現実を変えていこうとするならば、大衆と一体化した運動を推し進めていくことが必要となるのであろうと、「鉄門を打破」という言葉が刻まれた胎中の胸像の前で強く思わされた次第です。

自由民権現代研究会代表 中村英一

 

【 参考文献 】

『真鶴町史 通史編』真鶴町

『海老名市史 第8巻 通史編 近代・現代』海老名市教育委員会

『えびなの歴史 海老名市史研究 第5号』海老名市史編集委員会編

『大和市史 第3巻 通史編 近現代』大和市

『政党政治家胎中楠右衛門と二つの憲政碑』高橋勝浩 明治聖徳記念学会紀要44号

『政党の更生を説いて時務に及ぶ』胎中楠右衛門 安久社

『胎中楠右衛門の片鱗』 山本熊太郎  安久社

『神奈川県柑橘史』 神奈川県柑橘農業協同組合連合会

『真鶴の歴史を探る』 遠藤勢津男

 『人物叢書 近衛文麿』古川隆久 吉川弘文館

『真実の原敬 維新を超えた宰相』 伊藤之雄 講談社現代新書