自由民権運動の壮士たち 第15回 「縁の下の力持ち」として至誠を尽くした男 村野常右衛門(神奈川県・東京都) 【後編】


【 遊説先の徳島県での集合写真 中央の椅子に座っているのが原 左後ろに立っているのが村野 (町田市立自由民権資料館保管「村野常右衛門関係史料」より) 】

 

立憲政友会という政党の成立と、それを与党とする政党内閣の誕生に大きく貢献した星亨。その星が亡くなった後、村野は星に託した希望を、原敬に託していくこととなります。後に「我田引鉄(がでんいんてつ:政治家が地元に強引に鉄道を誘致すること)」とも呼ばれる利益誘導型の政治を生み出したと批判された原を、「至誠の人」と呼ばれた村野が支持するというのは、星の場合と同様に違和感を覚えるかと思われます。しかしここでも、村野が原と歩んだ道を知ることによって、村野がどのような希望を原に託したのかが、分かるのではないかと思います。

 

【 若き頃の原敬 (国立国会図書館近代日本人の肖像より) 】

 

憲政党が大勝した第6回選挙で衆議院議員に初当選していた村野は、星が亡くなった翌年に行なわれた次の選挙でも再選を果たします。すでに大臣となっていた原は、この選挙に盛岡市選挙区で初挑戦します。対立候補は、盛岡から秋田を結ぶ鉄道の建設を主張しましたが、原は鉄道の建設を訴えはしませんでした。

その逆に原は、そうした公共事業に頼るのではなく、盛岡の人たちが自立心を持って、自らの力で商業や農業、工業を発展させていくべきと訴えて、見事に当選を果たしたのでした。したがって、後年言われるように、原は鉄道などの公共事業を単純に地方に利益誘導しようとしたのではありませんでした。そうした鉄道や港、大学のような高等教育機関といった産業基盤は、税金で積極的に整備しますが、その上で民間の創意工夫で産業を起こし、経済を発展させていこうと考えていたのです。そしてこの考えは、「積極政策」と呼ばれるようになりました。

 

【 西園寺公望 (国立国会図書館近代日本人の肖像より) 】

 

そして原は、初代総裁の伊藤や第二代総裁の西園寺公望(さいおんじ きんもち:公家出身、第12代内閣総理大臣を務める)の下で、立憲自由党の頃からの九州グループのリーダーだった松田と共に、立憲政友会を担っていくこととなります。そして、立憲政友会の幹事、幹事長となる村野は、その原を党内で支えていく「縁の下の力持ち」の役割を担っていったのでした。

それ以後、山縣系の桂太郎(かつらたろう:長州藩、陸軍出身。第11、13、15代内閣総理大臣を務める)と西園寺公望が交代で首相となる時代となります。第一西園寺内閣と第二次西園寺内閣で、原は内務大臣に就任。内務省は、地方行政から警察、土木、衛生まで国内の行政の大半を担う巨大官庁で、陸軍と共に山縣系官僚グループの拠点となっていました。その内務省のトップとなった原は、知事など地方官僚の入替えをするなどして、徐々に山縣系官僚の力を削いでいこうとします。

また、府県と各町村の間にある郡を廃止して町村の自立化を期待すると共に、全国の郡の役人に強い影響力を持っていた山縣の力の弱体化を図りますが、結局この郡の廃止法案は貴族院を通過することはできませんでした。

 

【 桂太郎 (国立国会図書館近代日本人の肖像より) 】

 

第二次西園寺内閣は、軍備増強を求める陸軍と妥協できずに倒れ、第3次桂内閣が成立します。「山縣や桂といった藩閥勢力(政府や軍を支配していた薩摩藩、長州藩出身者の勢力)が陸軍を使って内閣を倒した」という批判が新聞などを通して高まり、「閥族打破(ばつぞくだは)・憲政擁護(けんせいようご)」をスローガンとした、いわゆる護憲運動が盛り上がります。

その結果、桂首相は辞任し、海軍の長老である山本権兵衛(やまもと ごんのひょうえ)内閣が成立。立憲政友会は与党となり、原も内務大臣となって、陸海軍省の改革や、高級官僚の任用システムを改革する政策を実行して、陸軍や官僚に対する山縣の影響力を弱めていきます。そして、行政のムダを省く「行政整理」の責任者になった原は、役人の数を減らして前年度予算の5.9%もの予算削減を実現しました。このように原は、「積極政策」を進める際に常に「行政整理」を行ない、そこから財源を生み出そうとしました。その点では、行政改革や規制緩和を行なわずに、予算の拡大だけを行なって財政赤字を増やし続け、増税を繰り返してきた現在の日本の政治とは全く違っていたのです。

 

【 山本権兵衛 (国立国会図書館近代日本人の肖像より) 】

 

こうして山本内閣の下でも、原の求める政治は一歩一歩ですが着実に実現されていきました。ところが、ドイツのシーメンス社から、海軍の幹部がワイロをもらっていたことが発覚して、世間の批判を浴びるようになります。山本首相は事件と関係はありませんでしたが、山縣は貴族院での自らの勢力を動かして、海軍の長老である山本首相を辞職に追いこみます。

 

【 大正4年 大隈重信の演説 (YOUTUBEより)】

https://www.youtube.com/watch?v=moblHdGeXRM

 

その後任に山縣は、当時77才となっていた大隈を推薦。山縣はこの第二次大隈内閣に、原たちの抵抗で長く実現しなかった陸軍の増強と、原たち立憲政友会の衆議院での議席数を減らすことを期待します。第一次世界大戦が起こる中で行なわれた総選挙で原は、外交と安全保障問題を中心として大隈内閣を批判。これに対して大隈は、当時続いていた不景気の原因を、立憲政友会の腐敗や「積極政策」に求めて対抗。演説のレコードの配布や、鉄道で移動しながら各駅で演説を行うなど、新しい選挙手法で国民の人気を集めます。また、第2回総選挙以来の激しい選挙干渉を立憲政友会に対して行ないました。その結果、立憲政友会は予想外の大敗をきっすることとなりました。

 

【 大浦兼武 (Wikipediaより) 】

 

ところで、この激しい選挙干渉を指揮した大浦兼武(おおうら かねたけ:薩摩出身の元警察官僚。)内務大臣は、選挙前の時点で陸軍増強案を可決させようとして、立憲政友会に所属する議員18人を買収し、立憲政友会から脱党させていました。この脱党した議員の1人だった白川友一(しらかわゆういち)は、自分の選挙区の対抗馬だった加治寿衛吉(かじすえきち:第11、12回総選挙で白川と激しく戦い落選)を選挙に出させないように工作することを、大浦に金銭を渡して頼みます。

 

【村野常右衛門 神奈川県湯河原にて (町田市立自由民権資料館保管「村野常右衛門関係史料」より)】

 

この事実を知った村野は検察に告発しようとします。村野はこの際に、告発を止めるよう周りの議員から勧告され、原からもさとされました。しかし村野は、立憲政友会の代議士会の場で「憲政擁護のためには友人の勧告も総裁の懇諭(こんゆ)も私の目にはなんらの権威もない」と原や他の議員たちの前でハッキリと言い切り、立憲政友会の役員を辞職。大浦と刺し違える気迫の刃を抜いて、単身告発に踏み切ったのでした。この村野の敢然とした告発をきっかけとして、大浦が立憲政友会の議員たちを買収して脱党させていたことが明らかになります。世間の批判が高まる中で大浦は辞職に追いこまれ、第二次大隈内閣も崩壊することとなりました。

 

【 寺内正毅 (国立国会図書館近代日本人の肖像より) 】

 

大隈の後継となったのは、山縣系の寺内正毅(てらうち まさたけ:長州出身、陸軍軍人)でした。その翌年、それまで山縣が同盟相手としていたロシアでロシア革命が起こり、革命の広がりを抑えるために寺内内閣はシベリア出兵を強行。これによって米の買い占めが始まって、米価は2倍以上の価格となり、全国各地で米騒動が起こります。その責任を取って寺内は辞任。ここで、初めての「平民宰相(へいみんさいしょう:華族でない平民出身の首相)」として、原が内閣を組織することとなりました。

 

【 米騒動 (衆議院HP「目で見る議会政治百三十年史」より)】

 

原は、外交政策においてはアメリカ、イギリスとの協調を進め、中国への内政不干渉にもとづく日中親善を訴えていました。一方の山縣は、ロシアとの協調を進める中で、中国を日本の勢力圏におこうと考えていましたが、この構想はロシア革命によって完全に崩壊。こうした中で山縣も、原が首相になることを認めざるを得なくなったのでした。

 

【 ロシア革命の様子 (Wikipediaより) 】

 

原の構想したこのアメリカ、イギリスとの協調路線では、中国という巨大な市場で、軍事力に頼らない経済競争をアメリカ、イギリスと行なっていくこととなります。その競争に勝つためには、日本の国際競争力を強化していく必要がありました。そこで原は、「四大政綱」と名づけた改革方針を発表します。それは、①教育の振興、②交通・通信機関の整備、③産業・貿易の奨励、④国防の充実という4つの方針でした。

①の教育の振興のポイントは、産業の発展を担う人材を供給するための高等教育機関の充実でした。そのために、新たに東京商科大学(現・一橋大学)などの国立大学や、大阪高校(現・大阪大学)、弘前高校(現・弘前大学)、松江高校(現・島根大学)などの旧制高等学校10校、横浜高等工業(現・横浜国立大学工学部)、広島高等工業(現・広島大学工学部)などの実業専門学校17校が創立されます。また、それまでは大学を名乗っていても専門学校とされていた早稲田大学、慶応大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、国学院大学、同志社大学の私立8校の大学への昇格が認められました。

 

【 原敬 (国立国会図書館近代日本人の肖像より) 】

 

そして、②の鉄道・通信機関というインフラの整備を政府が行なうことによって、③の産業と貿易の奨励を、政府ではなく民間の力で実現していこうという方針でした。また、④の国防の充実については、国防の充実を掲げることによって陸海軍と対立することを当面回避し、第一次大戦後の軍縮を求める国際世論の中で軍事拡大の要求を抑えていって、教育、鉄道・通信への投資を進めていくつもりだったと言われています。

 

この頃は、ちょうど第一次大戦による好景気で税収が伸びていたので、積極的な投資を行なう財政的余裕が生まれていました。そして原は、全国の主な幹線に鉄道を建設すると共に地方の港を整備して、効率的な輸送網を全国的に張りめぐらして、全国の産業を発展させていこうとします。

これが、原が推進した「積極政策」ですが、後年それは鉄道などの公共事業を使って立憲政友会の勢力を広げるための、「我田引鉄」とも言える地方利益誘導策だったと批判的に評価されてきました。しかし、そもそもこの「我田引鉄」という言葉自体が、憲政本党(旧立憲改進党、進歩党系)系の新聞が立憲政友会を批判するために使った極めて政治的な言葉だったのです。また、そうした新聞記事を戦後の学者が無批判に受け入れ、1960年代の自民党政治のイメージと重ね写したゆえに、誤った評価が生まれたとの指摘もなされていています。

 

【 大船渡線路線図 (Wikipediaより) 】

 

大正時代の実際の「我田引鉄」の代表例としては、岩手県と宮城県を結ぶ大船渡(おおふなと)線がありました。この線は、大船渡などの岩手県の海岸線と、一ノ関などの岩手県内陸部を、途中宮城県の気仙沼などを通って最短経路で結ぶ線として計画されました。

ところが、立憲政友会と憲政会(けんせいかい:反立憲政友会の勢力が合同して結成された)の候補が激しく選挙戦を戦った結果、当選した立憲政友会の衆議院議員が、建設費の三分の二ほどの私財を提供するなどして、自分の地元を通るようにルートを変更させます。一方、ルートから外された地域では、立憲政友会員が多数脱党。次の選挙では憲政会が勝利して、全国的にも第一党となります。

そして再びルート変更が行われた結果、4回90度に曲がる(コの字型)という奇妙な路線の形となってしまいました。当時は「鍋のつる」に似ているということで、「ナベツル路線」と呼ばれ、JRとなってからは竜のようにくねくねと曲がっていることから「ドラゴンルート」と呼ばれるようになりました。

 

このように「我田引鉄」の鉄道政策は、立憲政友会の勢力によってのみ行われたわけではなく、ましてや原の進めた鉄道政策とは直接関係ありませんでした。ここでも星の場合と同様に、原の真の思いを理解せずに、自分たちの利益だけを追求した議員やその支持者たちが、各地方にいたということだったのでしょう。その姿はむしろ、バブル崩壊以降の景気対策を大義名分として、地方空港のようなムダな公共事業を全国で展開して、巨額の財政赤字を積み上げてきてしまった現在の日本の政治の姿に似ているように、個人的には思えます。

しかし、原の政策はあくまでも、全国的な視点から必要な鉄道網を形成し、全国各地に産業を興して日本の経済力を高めていこうとするものでした。そして、そのような鉄道と港を整備して地域の産業を発展させるという政策を、地元で実現したのが村野だったのです。

 

【 町田市に残る「絹の道」の石碑 (撮影:筆者) 】

 

幕末の開国から、日本第一の輸出品となったのが生糸でした。当時の八王子の街は「桑都(そうと)」と呼ばれ、三多摩だけでなく、山梨、埼玉、長野、群馬からも生糸や絹織物が集められて、その頃「絹街道」と呼ばれた街道を通って横浜港まで運ばれ、輸出されていました。

 

【 町田市に残る「絹の道」の地名 (撮影:筆者) 】

 

そこで、八王子から横浜までを鉄道で結んで、輸送の便を向上させようという計画が生まれます。こうしてちょうど日露戦争が始まった頃に、横浜鉄道株式会社が創立されて、村野はその監査役に就任。村野はその後もずっと監査役を務めると共に、民権家時代の仲間のつてを頼って、鉄道用地の買収に奔走します。こうして「桑都」八王子と日本最大の輸出港である横浜を結ぶ鉄道として、横浜鉄道が開通。八王子から多くの生糸関連産品が横浜へ鉄道で運ばれることとなりました。この横浜鉄道は、現在JR横浜線となっています。

 

【 横浜倉庫から村野に送られた感謝状 (町田市立自由民権資料館保管「村野常右衛門関係史料」より) 】

 

また当時の横浜港は、年々貿易量が増大していたのですが、輸出入される物資を保管する倉庫が不足していました。そのため、横浜港の倉庫を整備していくために、横浜倉庫株式会社が創立されます。ここでも村野は監査役に就任。そして、横浜鉄道の東神奈川駅前の海を埋め立てて、そこに倉庫を建設し、さらに横浜鉄道から貨物用の延長線を引いて物資を運び、輸出入を盛んにしていこうという壮大な計画を、村野たちは進めていきます。

創立から数年後に、村野は横浜倉庫の社長に就任となります。自由民権運動や政党活動の中で実務能力を発揮してきた村野は、倉庫会社の経営者としてもその力を発揮しました。当時衆議院議員だった村野は横浜市内に家を借り、朝に横浜倉庫に出勤して業務をこなした後、鉄道に乗って東京へ移動して衆議院に出院するという、非常に多忙な生活を送っていきます。

 

【 横浜倉庫から村野に送られた硯箱 (町田市立自由民権資料館保管「村野常右衛門関係史料」より) 】

 

横浜倉庫は、物資の保管業だけでなく、埋め立てた土地を日清製粉や横浜水道局に賃貸するなどして、経営を拡大していきます。こうして村野は、鉄道の開設と横浜港を拡張し、三多摩の養蚕業を発展させて地域経済を成長させ、横浜港を拡張し、輸出拡大による外貨獲得を増大させていきました。このようにして村野は、原の「四大政綱」が掲げた交通の整備(横浜鉄道と横浜港)と産業(養蚕業)と貿易(生糸輸出)の奨励を、地元において具体的に実現させていったのです。そしてこれこそが、原が求めた「積極政策」の理想的な姿だったのかと思われます。

その一方で、こうした村野のような自由民権運動の中でつちかわれた自主独立の気骨を持たない政治家と経済人しかいなかった地域では、同じ「積極政策」が大船渡線の例のように、単なる地域へのバラまき政策に堕してしまったのではないかと思われる次第です。

 

【 東神奈川駅近くにある現在の横浜倉庫 (撮影:筆者) 】

 

さて、普通選挙法の制定を求めるいわゆる「普選運動」が盛り上がる中で、原は解散総選挙を選択。普通選挙法の制定ではなく、「四大政綱」に基づく経済発展を目指すか否かを、選挙の争点とします。その結果、立憲政友会は解散前の約43%の議席数から、単独過半数を越える約60%の議席を得るという大勝利をおさめます(ただし村野は、新人候補に予想外の敗退をきっします)。

こうして原は、時間をかけて実績を積み重ね、「官」と正面から対立するのではなく、巻きこんでいくことによって、貴族院から陸海軍、官僚グループにまで影響力を広げていきます。最終的には、長年対抗してきた山縣からの信頼も勝ち取って、15年前に失敗した郡の廃止も実現させました。

こうした現実政治家としての実行力、政治力こそ、星亡き後で村野が原に期待した力だったのかと思われます。そして、「官」よる分厚く硬い壁に穴をこじ開け、政党の力が成長し、憲政(憲法に基づく、国民から選ばれた議会中心の政治)が実現されていく時代を迎えたかと思われた矢先に、原は東京駅で、青年に短刀で突き刺されて亡くなってしまいます。村野は、またも支えるべき希望の存在を、テロリズムによって失ってしまったのでした。

 

【 東京駅丸の内南口改札近くにある原首相遭難現場 (撮影:筆者) 】

 

それから原の後継として、貴族院議員だった高橋是清(たかはしこれきよ:「ダルマさん」の愛称で親しまれ、大蔵大臣としての手腕が高く評価される)が内閣を組織しますが、その後は海軍出身者、そして官僚と貴族院議員を中心とした内閣が続くこととなってしまいます。こうした状況に対して高橋は、政党内閣の復活を求めて、貴族院議員を辞めて衆議院議員となることを宣言。これに応じた他の2政党と共に、いわゆる護憲3派連合が結成されて、第2次護憲運動が盛り上がります。

そして総選挙において高橋は、「余命を民衆政治のために捧げん」と訴えて、原の選挙区であった盛岡市から出馬。村野は盛岡に乗りこんで選挙の事務長を務め、無事高橋を当選させます。そして、護憲三派の圧勝によって政党内閣が復活しますが、政治家としての村野の活躍もほぼこれで終わりを告げることとなったのでした。

 

【 髙橋是清 (Wikipediaより) 】

 

その後、昭和の時代となって政党政治への批判が高まり、五・一五事件によって立憲政友会総裁であった犬養毅(いぬかいつよし)首相が暗殺されて、政党内閣は崩壊してしまいます。その翌年に、耕余塾での村野の後輩にあたる胎中楠衛門(たいなかくすえもん:前編参照)は、憲政の危機を感じて、「自由民権運動以降、憲政の発展に尽くしてきた人たちをたたえ、その意義を復権させる」ことを目的として、村野たちの功績をたたえる憲政碑を現在の海老名市内に建てました。

 

【 海老名市に立つ憲政碑 (撮影:筆者) 】

【 憲政碑に刻まれた村野常右衛門の名前 (撮影:筆者) 】

 

現在、周りに草や木が茂ってしまっている憲政碑を訪ねると、「石坂正孝、村野常右衛門、森久保作造の諸氏を始めとし、中央にあるいは県地に多年奮闘を続け、憲政の発達に尽くせる功労真に偉大なるものあり」という碑文を読むことができます。。

 

 

【  町田市立自由民権資料館 (撮影:筆者)】

 

【 資料館前に立つ凌霜館跡の記念碑 (撮影:筆者) 】

 

村野が自分の土地に建てた凌霜館(りょうそうかん)の跡地は、村野家から町田市に寄付されて、現在は町田市立自由民権資料館となっています。横浜倉庫の経営に携わるようになってから村野が書き始めた膨大な量の『村野日誌』が、この資料館に保存されており、現在もその翻刻(ほんこく:書物を原本のままの内容で再び出版すること)作業が村野日誌研究会の方々によって地道に続けられていて、その成果は資料館との協働の形で出版されています。

 

【 村野常右衛門生家の紹介 (YOUTUBEより 町田市立自由民権資料館作成)】

https://www.youtube.com/watch?v=Yy7Sutju7ko

 

資料館の近くにある町田市立野津田公園には、村野の生家が復元、移築されています。その生家の2階にある部屋には、3枚の肖像写真が掲げてあります。その3枚とは、石阪正孝、星亨、原敬の肖像写真。村野はこの3枚をずっと家内に掲げていたそうです。

石阪の下で自由民権運動の発展のために、星の下で自由民権運動の流れを引き継ぐ政党の力を伸ばすために、原の下で憲政(憲法に基づく、国民から選ばれた議会中心の政治)の実現のために、「縁の下の力持ち」として、村野は至誠を尽くして生き抜いたのでした。

 

【 村野常右衛門生家内にある3人の肖像写真 左から星、石阪、原 (撮影:筆者)】

 

「官」が肥大化し、増税が繰り返される一方で、財政赤字が積み重ねられていく現在の日本の政治。そうした流れに対抗すべき政党や議会が全く役割を果たさない中で、国民の将来への不安は増大し、議会政治への信頼も失われつつあります。

憲法の制定と国会の開設を実現し、民力休養を求めた自由民権運動と、憲政を実現するために星や原が試行錯誤した、その後の政治の実像を再評価した上で、国民一人ひとりが未来を見据えて、少しずつでも行動していくこと。日本の議会政治を再生させていくために、それこそが求められている。村野がその下で至誠を尽くした3人のリーダーの肖像写真を眺めながら、そう強く思わされた次第です。

 

【 石阪昌孝の肖像写真 (撮影筆者) 】

 

【 星亨の肖像写真  (撮影筆者) 】

 

【 原敬 の肖像写真 (撮影筆者) 】

 

【 村野が衆議院出院時にかぶっていたシルクハット(町田市立自由民権資料館保管「村野常右衛門関係史料」より)】

 

【参考文献】

『村野常右衛門とその時代』町田市立自由民権資料館

『村野常右衛門関係史料目録』町田市立自由民権資料館

『武相近代資料集1-1 村野日誌1』村野日誌研究会 町田市立自由民権資料館編

『流転の民権家 村野常右衛門伝』 色川大吉 大和書房

『総選挙から見た多摩近現代政治史 1890-1980(上)』 椎木哲太郎

多摩大学研究紀要「経営情報研究」No.19 2015

『相州自由民権運動の展開』 大畑哲 有隣堂

『藤沢市ブックレット4 小笠原東陽と耕余塾に学んだ人々』 高野修 藤沢市文書館

『星亨 藩閥政治を揺がした男』 鈴木武史 中公新書

『人物叢書 星亨』中村菊男 吉川弘文館

『原敬 外交と政治の理想』上・下 伊藤之雄 講談社選書メチエ

『真実の原敬 維新を超えた宰相』 伊藤之雄 講談社現代新書

『原敬と山県有朋』 川田稔 中公新書

『原敬 日本政党政治の原点』 季武嘉也 山川出版社

『原敬 政治技術の巨匠』 テツオ・ナジタ 読売選書

『史上最強の平民宰相 原敬という怪物の正体』 倉山満 徳間書店

『鉄道と国家 「我田引鉄」の近現代史』 小牟田哲彦 講談社現代新書

『政官攻防史』 金子仁洋 文春新書