自由民権運動の壮士たち 第15回 「縁の下の力持ち」として至誠を尽くした男 村野常右衛門(神奈川県・東京都) 【前編】


【 若き頃の村野常右衛門(町田市立自由民権資料館保管「村野常右衛門関係史料」より) 】

 

東京都八王子市の中心部に、陸上競技場や野球場を備えた富士森公園という大きな公園があります。その中にあるこんもりとした小山の上にある神社の前に、大きな石碑がひっそりと立っています。ほとんど誰の関心もよばないこの石碑は、明治時代にこの三多摩地域で盛んだった自由民権運動のリーダーを務めた石阪昌孝(いしざかまさたか:衆議院議員を4期務める)の活動をたたえる顕彰碑です。そして、石碑の裏に名前が刻まれている森久保作造(もりくぼ さくぞう:衆議院議員を5期務める)と村野常右衛門(むらのつねえもん)は、石阪の下で共に活動した自由民権家でした。⦅※三多摩地域とは、旧の北多摩郡(現在の立川市や府中市など)、西多摩郡(青梅市、あきる野市など)、南多摩郡(現在の八王子市、町田市など)を指す言葉で、明治時代前半は神奈川県に属していました。⦆

 

【 石阪昌孝の顕彰碑 (撮影:筆者) 】

 

村野は、江戸時代末期に南多摩郡野津田(のづた)村(現在の町田市野津田町)の名主(なぬし:村の長として村をまとめる役)の家に生まれました。村野家は、農業と質屋、そして屋敷内を流れていた鶴見川を利用して水車業を営んでいました。明治となった年に父が亡くなったため、村野は10代になる前に5代目常右衛門を襲名。幼くして名主の家の長となった村野は、しかるべき教養を身につけるべく複数の塾で学んだ後、小笠原東陽(おがさわらとうよう)が、神奈川県高座(こうざ)郡羽鳥(はとり)村(現在の藤沢市羽鳥)で開いていた耕余塾(こうよじゅく)で学びます。

 

【 小笠原東陽の墓 (撮影:筆者) 】

 

東陽は、幕末に姫路藩の江戸藩邸の学問所に勤めていましたが、明治維新に際して、藩を離れて平民となった後、池上本門寺の僧に漢学を教えるなどして生計を立てていました。その頃に、羽鳥村の名主だった三觜八郎右衛門(みつはし はちろうえもん)に地元で教育を行なうように頼まれて、羽鳥村に招かれます。廃寺を使って始まったそして、最初は読書院という名前で廃寺を使って始まった私塾は、羽鳥村の子どもたちでだけでなく、宿場町として栄えていた藤沢町(現在の藤沢市)からも子どもたちを集めました。そして、耕余塾と名前を変えた頃には、百名以上の塾生を集めるようになり、地域の有力者たちから資金を集めて寄宿舎をふくめて新たな学舎を、三觜家の土地に建設するようにまでなりました。

 

【 旧三觜八郎右衛門家住宅(国の登録有形文化財 撮影:筆者)】

 

塾名の「耕余」とは、「耕作など農作業を行なった上での余りの時間とエネルギーで学問に励んで人間形成に努める」という意味だったようです。そして、漢学だけでなく、算術や『西国立志編』(「天は自ら助くる者を助く」という言葉で有名な、イギリスのサミュエル・スマイルズの『自助論』の翻訳本)なども授業で使われ、英会話や英作文も教えられたといいます。こうした先進的な教育が行われていたので、当時神奈川県の県令(現在の県知事)を務めた大江卓(おおえたく:土佐藩出身、大同団結運動に参加して衆議院議員を1期務める)や中島信行(なかじまのぶゆき:土佐藩出身、自由党の初代副総理、初代衆議院議長を務める)といった人たちも、自分の子どもを耕余塾に通わせたのでした。

そして東陽は塾生に対して「平民者天民也、天民者不羈也(人は天の民であって、人は何者からも束縛されず自由である)」とよく語っていたといいます。こうした自由な思想での教育が行われた耕余塾からは、後に自由民権運動を担う30名余りの民権家たちが育っていくこととなります。

 

【 平野友輔 ( Wikipediaより) 】

 

その一人である平野友輔(ひらのともすけ)は藤沢町の薬商の息子で、耕余塾から東京大学医学部別科に進み、八王子で医院を開業して、三多摩地域での演説会で積極的に演説を行いました。後に藤沢に戻って医院を開業。湘南中学校(現湘南高校)の校医を務めるなど地域医療に貢献した後、衆議院議員を一期務めました。

 

神奈川県高座郡中新田(なかしんでん)村(現在の海老名市中新田)の名主の家に生まれた大島正義(おおしま まさよし)は、耕余塾を卒業した後に、石阪や村野たちが開いた集会から由民権運動に参加していく中で、県会議員を務めました。また、群馬県や福島県での養蚕方法を研究して、新しい養蚕方法を開発。松方デフレ⦅大蔵大臣松方正義(まつかたまさよし)が進めたデフレーション政策⦆によって大不況に陥った農村に新たな養蚕方法を広め、地域経済を立て直そうとする「養蚕民権家」となりました。

 

【 胎中楠衛門 (一番左側 Wikipediaより)】

 

また胎中楠衛門(たいなか くすえもん)は、耕余塾で学び、神奈川県内で民権家として活動した後、星亨(ほしとおる:自由党のリーダーとなる)と知り合って、星がアメリカ公使となった際に一緒に渡米。20年間滞米して帰国後、自由党の後身である立憲政友会に入って衆議院議員を4期務め、原敬内閣の裏方役を務めました。

 

後にこうした活躍をする若者たちと共に、村野も耕余塾で学ぶ時を過ごしました。この耕余塾は、東洋が塾生に教えるだけでなく、塾生同士が熱く議論する場でもありました。村野は、平野や他の学友たちと議論を重ねて思考を深めていく中で、全国各地を回って色んな人と議論を重ねていきたいという思いを抱くようになります。しかし、その思いを母親に相談したところ、当時の村野家を支えていた親戚からの反対を受けて、退塾して野津田村に戻ることとなってしまいました。

 

【 耕余塾跡 (撮影:筆者) 】

 

大人になってからの村野は、周囲から「至誠の人」とか「高潔の人」と評されることが多かったそうです。そのように誠実で私欲のためには動かない人として評された村野は、弁舌は上手ではなく寡黙、しかし決断力と人をまとめる力と人望はあるという人物だったようです。そうした村野の人物像を形成する上で、東洋の教えと耕余塾で過ごした経験は大きな影響を与えたのだと思われます。

 

帰郷した村野は家業を営むと共に、地域の指導者としての道を歩んでいきます。この時に家業としての質屋業などの経営を経験したことが、後に政党や倉庫会社の経営を担って実務家として活躍する力の素を築いたのではないかと言われています。

 

【 村野常右衛門生家 (撮影:筆者)】

 

そして村野は、野津田村の戸長(こちょう:明治時代前期に地域に置かれた行政の責任者)になります。村野が戸長となった目的は、当時乱れていた南多摩郡の郡政を是正することでした。ちょうどその頃、県会議員の選挙において南多摩郡郡役所が名簿の整備を怠ったために、投票権のある者に投票用紙が与えられず、投票権の無い者に投票用紙が与えられるという事態が起きます。村野は、郡役所で選挙人名簿と被選挙人名簿をすべて筆写するという、地道な作業によって明らかにした事実をもとに、郡の役人の誤りを県に訴えて、郡長を辞職に追いこみます。こうして村野は、乱れた郡政の是正を実現したのでした。

 

この頃、国会開設を求める運動は全国的に大いに盛り上がり、国会期成同盟が結成されて、国会の開設を求める署名が全国から25万人分も集まるという状況になりました。これに対して明治政府の中心にいた伊藤博文(いとうひろぶみ:初代内閣総理大臣を務める)たちは、国会の早期開設を唱えていた大隈重信(おおくましげのぶ:その後、自由民権運動のリーダーとなる)たちを政府から追放すると共に、政府によって憲法を制定し、10年後に国会を開設することを発表します。

 

【 町田市・民権の森に残る石阪の墓 (撮影:筆者) 】

 

これに対して国会開設運動のリーダーだった板垣退助は、運動の目標を失った国会期成同盟を元として、自由党という日本で初めての政党を結成します。こうした中で村野は、同じ野津田村の20才近く年上の石阪昌孝たちと政治結社融貫社(ゆうかんしゃ)を結成して演説会を開くなどといった活動を行なっていきます。その後村野は、石阪や多摩郡高幡(たかはた)村の森久保らと共に、自由党に入党。石阪の下で三多摩地域での自由党の勢力を広める活動に取り組んでいきます。

 

しかし、①国会開設という大きな運動目標が失われてしまったこと。②集会条例や新聞紙条例といった政府の弾圧があったことに加えて、③自由党の組織に求心力をもたらしていた板垣が、ヨーロッパへの外遊のために日本を離れてしまったこと。④その板垣の外遊費用が政府から出ているのではないかという疑惑が生まれて、自由党内の内紛や、立憲改進党との対立激化につながったこと。⑤さらに、当時時政府によって進められていた「松方デフレ」政策によって、米価や繭の価格が低下して農村が大不況になっていたという状況も相まって、自由民権運動全体が低迷していきます。

さらに板垣が外遊している間に、⑥政府-警察によって福島事件や高田事件というでっち上げ事件が起こされて、自由党への弾圧が強まります。こうした状況に反発して、直接行動で反撃しようとする急進派も台頭。⑦そうした急進派の統制がうまく進まず、加波山事件のようないわゆる激化事件が各地で引き起こされ、さらに弾圧を受けるということもあって、自由党への人気も急速に落ちていってしまったのでした。

 

【 加波山山頂に立つ『自由と魁』の碑 (撮影:筆者)】

 

こうした中で外遊から戻って来た板垣は、低迷している運動の立て直しのための巨額の寄付金募集を提案。寄付金が集まれば命をかけて活動するが、集まらなければ党の総理を辞めて、自由党を解党すると宣言します。しかし上記の①~⑦のような現実の中で、募金は思ったようには集まらず、自由党は解党することとなってしまいました。

こうした運動の低迷期にあって、村野は自分の土地に私財によって凌霜館(りょうそうかん)という若き民権家たちを育てる道場を建設して、運動の立て直しを図っていきます。「厳しい霜を凌(しの)いで進む」という名前をつけたこの道場で、地元の若者たちに剣術を身につけさせ、政治を学ばせることによって村野は、後に「三多摩壮士(さんたまそうし)」と呼ばれるようになる、若き民権家たちを育てていこうとしたのでした。

 

【 「凌霜館」と記された盃 (村野常右衛門生家展示資料 撮影:筆者) 】

 

しかし、三多摩地域も「松方デフレ」によって始まった農村の大不況に見舞われた中、村野たちは、農村における不況の時制が切迫しているので、国会を予定よりも早く開設することを求める建白書を明治政府に提出して、農村不況への早急な対応を求めます。そして、このような苦しい経済状況の中で、村野たち神奈川県の旧自由党員たちの間には、旧自由党の急進派のリーダーだった大井憲太郎(おおいけんたろう:大分県出身の民権家、衆議院議員を一期務める)の影響力が強まっていきます。関東地方の他の地域の旧自由党勢力は、福島事件によって福島県、直接実力行動の最初となった群馬事件によって群馬県、加波山事件によって茨城県と栃木県、秩父事件によって埼玉県の勢力が徹底的に弾圧されて、その力を失っていました。こうした中で、一定の力を保っていた神奈川県の旧自由党勢力の一部と、大井たち急進派による革命計画が結びつくこととなります。

 

【 大井憲太郎 (国立国会図書館近代日本人の肖像より) 】

 

その頃日本の隣国である朝鮮では、日本の明治維新に見習って近代化を図り、清から独立しようとする青年貴族官僚たちによる開化派と、清への従属を維持して自らの政権を守ろうとする事大党との間での政争が起きていました。そして、開化派は日本軍の援助を受けてクーデターを起こしますが、清軍の介入で失敗(甲申事変)。開化派のリーダーだった金玉均(キム・オッキュン)は日本に亡命します。

このクーデター騒ぎの時に、清軍によって日本公使館が破壊されるなどしたため、日本国内では清を批判し、朝鮮の独立を求める世論が沸騰します。この状況を見た大井たちは

、この世論とエネルギーを日本国内の革命運動に転化できるのではないかと考えました。そして旧自由党員を朝鮮に送って再度クーデターを起こし→朝鮮を独立させ→日本と清との緊張を激化させ→反清への国民のエネルギーを湧き起こし→日本政府への批判に転じさせ→民主化を実現するという、現代の我々から見たら極めて荒唐無稽な革命計画を考え出します。

 

【 金玉均(キム・オッキュン) (Wikipediaより) 】

 

確かに、国会開設を求める全国的な大きなうねりを経験した直後に、全く逆の絶望的な状況に陥ってしまった運動の指導者たちが、失意の中から「一発逆転」を狙って考え出した苦肉の策だとは思います。しかし、自国内でも力を失っている政治勢力が、わざわざ何の足がかりも無い他国で独立運動を起こして、その影響で自国の運動を再興しようなどというのは、現実を無視した頭でっかちの計画にすぎなかったと、思われます。

事実、大井たちはこの計画への資金を募集しますが、資金はまったく集まらず、計画に参加した山本七平⦅やまもと よしち:当時20代後半、高座郡座間村(現在の座間市)の民権家))や大矢正夫⦅おおやまさお:当時20代前半、高座郡栗原村(現在の座間市)の民権家))といった神奈川県の若手グループは、強盗を実行して資金を準備することを大井たちから強要されてしまいます。

 

この計画の最終段階に入って、村野は山本から計画の一部を教えられました。当時20代後半だった村野は、この革命計画に感化されてしまいます。当時の村野は、森久保を「フランス革命史」というあだ名で呼んでいたというエピソードもあり、運動と地域経済が低迷する中で、若き村野も「革命運動」への現実離れした幻想を抱いていたのだと思われます。金の渡航費用が足りないと聞いた村野は、その資金の工面に奔走し、自分も一緒に朝鮮に渡る決意をします。しかし実際は、大井たちと金との間に強い信頼関係は作られておらず、村野が用意した資金も計画の中心人物によって持ち逃げされてしまいます。こうした杜撰な計画は当然の如く警察に知られることとなって、大井や森久保なども逮捕されたため、村野も自首することとなりました。

 

【 星亨 (国立国会図書館近代日本人の肖像より)】

 

全国で130人以上の民権家たちが検挙されることとなったこの事件は、資金の集約や打ち合わせが大阪で行なわれたため、大阪で裁判が行われることとなり、大阪事件と呼ばれることとなりました。公判で村野は星亨(ほしとおる:後に自由党系勢力のリーダーとなる)の弁護のもとに、朝鮮の独立運動を支援しようとしただけで、強盗などには関わっていないと主張します。

結果として、村野は禁固(労役はない)1年、森久保は裁判の対象から外され、大井ら首謀者は禁獄6年とされました。その一方で、強盗罪を犯した山本は懲役8年、大矢は懲役6年とされました。このように頭でっかちの指導者たちによって、「革命」という美名のもとに、強盗という犯罪行為を強要された下部の運動員が大損をするという理不尽な現実を見る時、「革命運動」や「革命運動の指導者」なるものを過度に美化しようとするのは、厳しく控えるべきかと思わされます。

 

【 村野自叙文 「融貫社」や「凌霜館」の名前も (村野常右衛門生家展示資料 撮影:筆者) 】

 

獄中で村野は、ジョン・スチュワート・ミルの『経済論』を読むなどして経済の勉強に努めました。逮捕されてから約2年8カ月たってようやく出獄した村野は、野津田村が周辺の村と合併してできた鶴川村の自宅に戻りますが、旧自由党の組織はほとんど失われてしまっていました。村野は、鶴川村の村会議員となって村政に参加するところから始め、森久保と共に県会議員となり、地元の仲間を増やし、石阪をリーダーとする旧自由党系の組織を建て直していく活動を、三多摩において積み上げていきます。こうして村野は、地元の自由民権運動を再興する活動に至誠を尽くし、地域に根差した現実政治家としての道を歩んで行ったのでした。

【前編 終了】