自由民権運動の壮士たち 第14回 何度倒れても立ち上がった男 内藤魯一(愛知県)


【 内藤魯一 (ないとうろいち)(知立市 歴史民俗資料館展示資料より) 】

 

「板垣死すとも自由は死せず」。この言葉は、自由民権運動のリーダーであった板垣退助(いたがきたいすけ)が、岐阜県で演説した直後に暴漢に襲われた際に叫んだ言葉として有名ですが、その時に暴漢を投げ飛ばして板垣を救ったのが内藤魯一(ないとうろいち)という愛知県の自由民権家でした。

この時魯一は36才。その前年に結成され、板垣が党首となった自由党の幹部を務めていた魯一は、この年に行われた板垣の東海道遊説活動に愛知県内から同行します。まずは現在の豊橋市にあった料亭で、現地の党員たちによる大懇親会に参加。百六十余名の参加者の下、魯一も熱弁をふるい、最後は板垣の演説でおおいに盛り上がったといいます。

それから渥美半島の中心地である現在の田原市を訪れて、田原城址内の巴江(はこう)神社社務所での懇親会に参加。地元の自由民権家である村松愛蔵(むらまつあいぞう:後に衆議院議員を務める)の司会で、参加者六十余名の下、まずは板垣が民撰議院設立の必要性を説いた後に、竹内綱(たけうちつな:高知県の自由民権家、戦後内閣総理大臣を務めた吉田茂の父)や魯一が演説を行いました。

 

【 現在の巴江神社(田原市内 撮影:筆者) 】

 

それから、現在の岡崎市や西尾市、魯一の地元であった知立(ちりゅう)市や名古屋市などで懇親会を開催した後、岐阜県へ移動。現在の多治見市や恵那市岩村町、中津川市などで懇親会や学術会議を開催した後、岐阜市に入ります。

そして、岐阜城がそびえる金華山山ろくにあった神道中教院での演説を終えて、旅館に戻ろうとした板垣を、短刀を持って待ち伏せをしていた暴漢が襲撃。板垣が傷を負う中、一番に駆けつけた内藤が暴漢を投げ飛ばし、周りにいた者たちが取り押さえました。この時に板垣が暴漢に対して発した言葉が「板垣死すとも自由は死せず」だったのですが、医者を待つ間に側近に対して語った言葉だとも言われています。

この時に魯一は、愛知県立病院の病院長だった後藤新平(ごとうしんぺい:後に南満州鉄道初代総裁、内務大臣、外務大臣、東京市市長などを務める)に電報を送って来診を依頼します。実はそれ以前に魯一の長男が県立病院に入院していた際に、魯一は後藤と知り合い、岩手県出身である後藤と同じ東北出身者(魯一は福島県出身)ということで親しくなっていたのです。人力車で駆け付けた後藤は、演説場所であった中教院の中に寝かせられていた板垣に対して、「どうです。ご負傷されて本望でしょうな」と声をかけ、板垣はニコッと笑ったというエピソードが残されています。

 

【 後藤新平 (国立国会図書館「近代日本人の肖像」より) 】

 

この時魯一あてに送られてきた「ソウリキヅ イマホヲエタ メイニベツジョウナキヤ ミマイノタメウカゴウ(総理傷、いま報得た。命に別条なきや、見舞いのため伺う)」という電報が現存しています。こうした電報が各地から送られてきて、魯一たちは返信を送るのに追われます。また、植木枝盛(うえきえもり:板垣の書生を務める中から、自由民権運動の理論的指導者となる)のような自由党の中心メンバーが全国各地から見舞いに訪れました。こうして板垣の名とその名セリフは、全国に響き渡ると共に、その危機を救った魯一の名も知られるようになったのでした。

 

【 魯一あてに送られてきた電報 (知立市 歴史民俗資料館展示資料より) 】

 

魯一は、江戸時代末に現在の福島市にあった福島藩の家老の長男として生まれました。江戸時代が終わって戊辰戦争(ぼしんせんそう:明治新政府軍と旧幕府軍や東北諸藩が戦った内戦)が始まると、福島藩は東北の諸藩と共に新政府軍と戦うことになります。この藩の方針に異議を唱えた魯一は、21名の同志と共に脱藩して、現在の福島県二本松市に駐屯していた新政府軍に謝罪・降伏を申し込みます。この時に新政府軍を率いていた司令官が、板垣退助だったのでした。

それから魯一たちは藩に戻って藩論を転じさせ、福島藩は新政府軍に謝罪・降伏することとなります。その後魯一は、新政府を何度も訪れて、藩への処罰を軽くするよう働きかけます。その甲斐あって、処罰の内容は藩主の交代と領地を減らされるだけとなりました。そして新たな藩主は、元々分領としてあった三河(みかわ:現在の愛知県東半部)地方の領地に移ることを決意。現在の知立市や刈谷市を中心とした土地に重原(しげはら)藩を立て、魯一ら藩士たちもこの地に移り住むこととなったのでした。

 

この時24才という若さだった魯一は、新たな重原藩の大参事(だいさんじ:現在の副知事にあたる)に就任して藩政改革に取り組みます。まず行政改革を行ない、藩士の複雑な階級を士と卒の2階級に整理。俸禄(ほうろく:藩から出される給与のこと)を、士には14石、卒には8石4斗と統一して財政支出を減らしましたが、その魯一自身の俸禄は以前の20分の1以下になるという、まさしく自らの身を切る改革を実践しました。

また廃藩置県(はいはんちけん:それまでの藩を廃止して、国が治める府と県に代えたこと)が行われて俸禄が無くなることを予見した呂一は、藩士たちの経済的自立の道を探ります。周辺の山林や原野を開墾して、藩士たちに分配。その土地で茶や桑の栽培を行なうように指導しました。この時作られた茶園などは、後に魯一も大きく関わることとなる明治用水がこの地に引かれると、水田に転換されていきました。そして魯一が予見した通り廃藩置県が行われて、重原藩は重原県となった後に、愛知県に合併されて無くなってしまい、魯一もその身分を失ったのでした。

 

【 若き日の内藤魯一 (知立市 歴史民俗資料館展示資料より)】

 

その後、板垣たちが民撰議院設立建白書を国に提出して、自由民権運動が全国に広がっていく中で、魯一もこの波に加わっていくこととなります。32才となっていた魯一は、農業を営むと共に重原村の村会議長を務めていました。重原村のある第9区(当時愛知県は18の大区に分かれていました)の正副戸長(この時期、区・町・村に置かれていた行政事務の責任者)たちに対して、魯一は「質疑団書(しつぎだんしょ)」という名前の質問書を送ります。

この中で魯一は、「①区の役人と区の議員の権限規則を定めて公選区会(区議会)をおこし、人民が国家を担う義務を自覚して、国のために尽くすようにしなければならない。②もしそうでないなら、政府はどのようにして国政を維持し、独立を祝うのか。③ある人は言うかもしれない。人民は国政に無知だからまだ時期が早いと。④しかし、このような理由で引き延ばしていては、いつになったら国家の栄光を増し、人民本来の姿を表すことができるのか。」と主張して、公選区会の設立を求めたのでした。

 

【 『交親社創立主旨書』 (知立市 歴史民俗資料館展示資料より)】

 

その後、魯一は17名の仲間たちと三河地方で最初の民権結社である「交親社(こうしんしゃ)」を結成して、地域での自由民権運動を始めます。社員の半数以上は重原藩の旧藩士でしたが、それ以外に豪商や富農、医師や神主も含まれていました。そして、全国的に広がった自由民権運動は具体的な目標を国会開設に定め、国会期成同盟が結成されます。第2回国会期成同盟大会では、2府22県から代表が集まり、国会開設請願を求める約13万人もの署名が集まりました。そして、次の大会までにそれぞれの政治結社が憲法の草案である、いわゆる私擬憲法(しぎけんぽう)を作って持ち寄ることが決められました。

東京の多摩地域では『五日市憲法』、高知では植木枝盛によって『東洋大日本国国憲案』などの私擬憲法が作られていきます。それらに先立って魯一は、『愛岐日報』(あいぎにっぽう:福沢諭吉の門下生を編集長として、愛知、岐阜県下で初めて発行された自由主義的新聞)紙上に『日本憲法見込案』という私擬憲法を発表します。

その中では、国会を民選による一院制とした上で、内閣の不信任や更迭の権限は国会にあること。また、皇帝といえども国会の議決を認めない場合はその理由を明記すること。国会が3分の2以上で再議決した時は、皇帝は重ねてこれを拒否することは出来ないというように、国民から直接選ばれる国会に強い権限を与えている点が、注目すべき特徴でした。

 

【 魯一の憲法草案 (知立市 歴史民俗資料館展示資料より)】

 

この頃、国会期成同盟の本部常務委員として、その中心的存在となっていた林包明(はやしかねあき)は、各地方に先立って魯一が憲法草案を発表したことに「感激した」という手紙を魯一に送ってきました。林は、憲法制定に至るまでの道筋を、次のように計画していました。それは、①次回の国会期成同盟の会議で、持ち寄られた憲法草案を審議して期成同盟案としてまとめる。②新しく結成する政党(自由党のこと)の党首が呼びかけて、各府県の総代委員を東京に集めて、「日本憲法会議」を開く。③その会議に期成同盟案の憲法草案を出して、正式な憲法案を起草する。④成立した憲法草案を、天皇に送って許可を得る。⑤憲法の制定を発表し、国会、議員を招集する。という道筋でした。現在の私たちの感覚からすると、かなり荒っぽいプロセスのように思えますが、何しろ初めての未知のことであり、憲法も法制度も整っていない段階では、やむを得なかったとも思われます。

 

【 林包明 (宿毛歴史館展示資料より)】

 

ちょうどこの頃、いわゆる「開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)」が起きて、世間での政府批判の声が高まることとなりました。これは、北海道を開拓する大規模な事業を政府の予算によって行なってきた北海道開拓使が、廃止されることとなり、開拓使長官黒田清隆(くろだきよたか:薩摩藩出身、後に総理大臣を務める)が、官有の施設・設備を、五代友厚(ごだいともあつ:薩摩藩出身の大阪の実業家。現在の大阪証券取引所、大阪商工会議所、南海電気鉄道などを設立。)たちに安値で払い下げることにしたとして、厳しい批判を浴びた事件でした。黒田は、部下の官吏を退職させて企業を起こさせて、そこに施設や設備を安値で払い下げることによって、開拓使の事業を継続させていこうとしていたようです。しかし、そのために設立された北海社という会社の経営がうまく行かなかったので、五代たちが経営する関西貿易商会が代わりに引き受けたため、薩摩出身者による談合のように受け取られて、世間の疑惑を招いたのでした。この事件をきっかけとして、政府を批判する運動が盛り上がり、国会開設を求める動きも全国的に大きく盛り上がる状況となりました。そうした中で、林も自らの構想を魯一のような在野の民権家たちと共に実現に向かって進めていこうとしたのでした。

 

【 五代友厚(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より) 】

 

しかし、当時の明治政府の中心人物だった伊藤博文(いとうひろぶみ:4度にわたって内閣総理大臣を務める)は、いわゆる「明治14年の政変」を起こして、国会の早期開設を主張していた大隈重信(おおくましげのぶ:この後、自由民権運動のリーダーとなる)たちを政府から追放すると共に、10年後の国会開設を決定。その国会の中身を定める憲法は、欽定憲法(きんていけんぽう:君主が自分の意思で制定する憲法)とする。反対運動をする者は容赦なく鎮圧すると発表します。これによって、自由民権運動の側による憲法論議は宙に浮いてしまい、魯一たちの私擬憲法案や、それらを元にして国民の手によって憲法を制定するという林の構想も、挫折することとなってしまったのでした。

 

このように状況が急変した中で、10年後の国会開設を見据えて、日本で最初の政党である自由党が、板垣を党首として結成されて、魯一と林も、党の幹事に名を連ねました。翌年には、政府を追われた大隈重信を中心に立憲改進党が結成。また、そうした民権派の政党に対抗する政党として立憲帝政党も結成されることとなり、三政党が競い合う状況が生み出されます。そうした中で、自由党への支持を広げるための板垣による東海道遊説活動が行われ、立憲帝政党の機関紙による板垣を批判する記事に影響を受けた暴漢によって板垣襲撃事件が起こされて、魯一もその場に立ち会うこととなったわけでした。

 

【 『板垣君遭難の図』(Wikipediaより)】

 

元々板垣は、戊辰戦争を勝ち抜いた軍事的指導者として名声を博し、軍事のカリスマとして、その存在が知られていました。ところがこの事件によって、自由民権家としての板垣人気が社会的な現象となります。例えば、豊橋の自由党員村山案山子(むらやまかかし)の妻だった信子は、板垣の血染めのシャツをもらい受け将来にまで秘蔵すると約束したとされ、事実その子孫の家に現在も秘蔵されているようです。また、この事件は芝居となって高知や岐阜で上演され、板垣の写真も各地で飛ぶように売れたといいます。こうして、軍事のカリスマであった板垣は、自由民権運動のカリスマへと変化し、大衆的な人気を手に入れ、自由党も勢力を拡大していくこととなったのです。

 

ところが、結成されたばかりの自由党の存在がまだ安定しないこの段階で、板垣はヨーロッパへの外遊を計画します。この外遊資金が政府から出ているのではないかという疑惑も生まれて、自由党内は混乱。外遊を批判した一部の幹部たちが党を抜ける事態となってしまいます。この外遊計画は元々、板垣の幼なじみで共に民撰議院設立建白書を提出した盟友である後藤象二郎(ごとうしょうじろう:後に農商務大臣を務める)が、伊藤や井上馨(いのうえかおる:後に外務大臣や内務大臣を務める)に対して持ちかけたものでした。

それは伊藤が、今後制定する憲法を調査するために、ヨーロッパへの外遊に出発する前のことで、井上は三井財閥から後藤に資金を提供させます。一方板垣はこの動きをまったく知らず、自らの支援者である土倉庄三郎(どくらしょうざぶろう:奈良県の山林地主)からの資金で外遊を計画していました。板垣には、伊藤がヨーロッパに渡って憲法の勉強を積み重ねていくことに対抗しなければならないという、強い思いと焦りがあったようです。

 

【 土倉庄三郎(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)】

 

しかし、この外遊の資金疑惑は自由党内だけでなく、立憲改進党からの批判も招きます。それに対して自由党の側は、立憲改進党党首である大隈が三菱財閥と癒着していると批判。自由民権運動を担ってきた勢力から生まれた両党の対立が、残念ながら激化していくこととなってしまいました。

こうした状況の中で、板垣は後藤らと共に外遊に出発してパリに渡ります。板垣は、土倉から送金される予定だった資金が東京で『自由新聞』発行のために使われてしまい、通訳に渡すお金にも苦労します。そのため、せっかくパリに渡ったのに、言葉が通じず、独りで部屋に引きこもっていた時期もあったようです。それでも、板垣が強い影響を受けていたイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーや、『レ・ミゼラブル』の作者であるヴィクトル・ユーゴーなどと交流することは果たしています。

一方で伊藤は、ウィーン大学の国家学教授であるシュタインの講義を受けます。シュタインが伊藤に説いた内容は、議会制度は国民の政治参加を進める上で必要だが、その議会政治と行政の調和を図る必要性があるというもので、まさしく伊藤の問題意識に当てはまるものでした。伊藤は2か月間シュタインの講義をみっちり受けて、「憲法だけの事は最早充分」との境地に至ったといいます。

 

 

【 ベルリンでの伊藤博文(国立国会図書館デジタルコレクションより) 】

 

伊藤の体験に比べると、板垣のそれは大きく劣っていたわけですが、それでも外国を初めて体験したことは板垣に大いに自信を与えました。ところが帰国した板垣が眼にしたのは、一時期の勢いを失った自由党の姿でした。板垣が外遊している間に、政府-警察によるでっち上げ事件である福島事件や高田事件が起こされて、自由党の活動への弾圧が強まりました。そして、こうした状況に反発した若者たちが急進化。こうした急進派の統制がうまく進まず、外遊問題をめぐる自由党内の内紛や、立憲改進党との対立もあって自由党の人気は落ちていたのです。

板垣は、自由党の現状を批判し、一旦解党した上で、多くの資金を集めることに成功したならば、自らの命を惜しまず活動すると宣言して、党員たちの奮起を促します。また、急進的になっている若者たちのために学校を創って教育・養成を行ない、自由党の活動を再興させていくという方針を打ち立てます。そして、東京に有一館(ゆういつかん)という教育機関を設立。魯一がその館長に就任します。板垣は有一館設立における演説で、自由主義に基づいた教育を受けることで、いたずらに武力に頼らない力を身につけることができると訴えました。しかし、残念ながら現実はそのようにはなりませんでした。

 

【 加波山山頂に立つ『自由之魁(さきがけ)』の碑 (題字は吉田茂元総理 撮影:筆者)

 

この有一館の館生になった者の1人に、福島・重原藩での魯一の旧友の息子である小林篤太郎(後に愛知県で東海日日新聞社を創立)という若者がいました。彼は、でっちあげによる福島事件で弾圧を受けた福島県の自由民権家らと共に、「専制的な政府を打倒する」と訴えて、茨城県の加波山(かばさん)で挙兵するという加波山事件に参加してしまいます。その後、事件の参加者全員が逮捕されますが、逃亡中の小林に逃走資金を渡したとして魯一も一時逮捕され、2年後に軽禁固刑(労役はなし)2か月を宣告されることとなってしまいました。

一方、板垣が打ち出した資金の募集計画もうまく進みませんでした。魯一も有一館館長に就任した後、長野県で資金を募集する遊説活動を行ないましたが、目標額の5%も集められなかったのでした。ただしこうした状況の背景には、西南戦争によって政府支出を増大させたために起きたインフレーションを解消するため、大蔵大臣松方正義(まつかたまさよし)が行なった「松方デフレ」政策が、繭や米の価格などの下落を招いたことによる、農村の深刻な不況があったのも事実でした。

そしてこのような状況の中で、自由党は解党します。立憲改進党も、内紛から党首である大隈を始めとした幹部が脱党することとなります。このように政党を中心とした中央での自由民権運動は一時期停滞の時期を迎えることとなったのでした。

 

【 『憲法発布略図』(Wikipediaより) 】

 

そして時が流れて、国会開設の時期が近づくと、自由民権運動は再び盛り上がってきます。大日本帝国憲法が発布されたのと同じ日に、衆議院議員選挙法も公布されて、第1回衆議院選挙が行われることとなります。この当時の選挙は、立候補制度を取っておらず、有権者は同一県内の被選挙権を持っている者ならば誰にでも投票してよく、自分の選挙区以外の者に投票することも可能とされていました。

魯一は、愛知県第8区【碧海(へきかい)・幡豆(はず)郡】で選挙活動を行ないましたが次点で落選します。その翌年の第4選挙区【丹羽(にわ)・葉栗(はぐり)郡】の補欠選挙でも落選。第2回選挙では、複数選挙区で当選可能な当時の制度を利用して、第2選挙区【愛知郡】、第7区【知多(ちた)郡】、第8区の3選挙区で選挙活動を行なうという、現在では考えられない挑戦を行ないますが、いずれも落選してしまいます。それから、第3回、第4回選挙でも次点で落選。第5回選挙では選挙活動を行ないませんでしたが、県会議員に当選して県会議長を4期務めることとなりました。

 

【 明治用水の完工を祝って創建された明治川神社(安城市内 撮影:筆者)】

 

こうした魯一が、地元の問題として最も深く関わったのが明治用水の問題でした。現在の明治用水は、矢作(やはぎ)川を水源として、豊田(とよた)市で取水し、安城(あんじょう)市を中心に8市にまたがる地域に水を供給しています。この地域の農地は、明治用水開削(かいさく)前の2300haから3年後には4300haまで増え、明治末期には8000haを超える一大穀倉地帯となりました。水不足に悩んだこの地域に用水を引く計画は、江戸時代後半に計画され、民間の出資によって実行されましたが一旦挫折します。明治時代に入って、再び民間の出資によって計画が再興され、予算が不足する部分は愛知県が融資することで計画は進められたのでした。

この用水建設の資金に出資した出資者たちは、用水を利用する農民たちから「分水慰労金」(用水から水を受け取る権利金に相当するお金)を受け取ることになっていましたが、県からの融資を受けるのに当たり、この分水慰労金が融資の抵当担保とされました。そして県は、融資の返済に代わって、この分水慰労金を徴収する権利を県に引き渡すように出資者たちに強制します。

 

【 現在の明治用水頭首工(農業用水を河川から取り入れるための施設  豊田市内 撮影:筆者)】

 

そして県は、用水からの配水を希望する農民に対して、分水慰労金を事前に県に支払うよう要求します。地域の農民たちは強く反発して、県に対して異議申し立てをします。農民たちが県に提出した文書では、①そもそも県には慰労金を徴収する権利はないはず。②民間の出資によって進められてきた事業に対して、行政機関が慰労金という資金を徴収することに疑問がある。③これまでは、用水の受益を得た農民が事後に払うことになっていた慰労金を、県が事前に強制的に徴収するのは納得できない。④仮に慰労金を納めても配水される保障はない。という主張がなされていました。このような農民たちの権利を守るための異議申し立て運動に、魯一が深く関わっていたことが、関連する文書の中で、明らかになっています。

こうした、魯一の指導の下での理を尽くした異議申し立て運動が行なわれた結果、まず用水が配水される地域を詳細に調査する。配水を受ける土地については、その権利金として、慰労金ではなくて配水料を県は徴収する、ということで決着をします。そして、土地の詳細な調査が行われることとなったため、徴収期限は延期され、一部の減額も実施されました。また、用水に関する自治組織も設立されて、魯一がその議長となったのでした。

 

【 現在の明治用水会館(安城市内 撮影:筆者) 】

 

一方江戸時代には、新たに開墾された田は、一定の年月を経るまでは年貢を免除されることになっていて、明治時代にも地価は開墾前のままで据え置かれることになっていました。明治用水の事業は民間の出資によったこともあって、開墾された土地の所有者となった農民たちは、地価の据え置き期間の延長をするように求めます。これが地価修正に対する「継年期運動」と呼ばれる運動となりました。

明治用水での開墾地に関しては、最初10年間の据え置き期間が設定されましたが、期限を迎える頃に地主たちは団結して大蔵大臣に請願。それが成功して、さらに据え置き期間が10年間延長されることとなりました。後に、明治用水の開墾地はすべて40年間地価を据え置くという法律が制定されて、農民たちの負担は大きく軽減されたのでした。この「継年期運動」の成功に関しても、魯一は深く関わっていたと言われています。

 

こうした地元の農民たちの負担を軽減する運動に取り組んできた魯一は、明治時代末の補欠選挙で初めて衆議院議員に当選します。この時魯一は59才になっていました。そして魯一は、帝国議会に「憲政創設功労者行賞に関する建議案」を提出して、2時間近くに渡る大演説を行いました。

その中身は、①国会開設が求められた時期には板垣や大隈らの功労があった。②開設前後には、政府が民権家たちに弾圧を加えた。それに対して罪人になることを覚悟の上で立ち上がった若者たちがいた。③そして憲法に基づく政治が実現したからこそ、日清戦争と日露戦争に勝利することができた。④伊藤博文は、憲法制定の権限を独占しようとして大隈を政府から追い出し、民権運動を弾圧した。⑤しかし弾圧に負けずに、言論での戦いを続けてきたので、ようやく現代のような言論の自由を得るようになったのだ。⑥したがって、憲政を実現するために貢献した真の功労者たちの調査をした上で表彰すべきという、かつての自由民権家たちへの表彰を求めるものでした。この演説に対して議場からは拍手喝采が湧き起こり、建議案は一部修正の上、衆議院において全会一致で可決されたのでした。

 

【 板垣からの電報「盛会を祝し内藤君の健康を祈る」  (知立市 歴史民俗資料館展示資料より)】

 

この時魯一が所属していた立憲政友会は、伊藤が自由党の流れを一部引き継いで結成した政党でした。政友会内部では、伊藤を批判した内容から魯一の処分を求める声もあったようですが、当の伊藤が「内藤氏は憲政の創設につき幾多の艱難(かんなん)を経験した功労者であり、今日の議会において多少の失言があったとしても、これを処分するのは穏当ではない」という意を伝えたとのことです。

そして、この演説に対する喜びと感謝を示す多くの手紙、また板垣からの電報も、魯一のもとに送られてきました。その手紙の中の一つには、「(魯一の演説は)死せる議会に新生命を与えたり。壮なり。快なり。」と書かれていました。それは、かつて国民の手による憲法の制定を魯一と共に追い求めた林包明からのものだったのでした。その2年後魯一は、衆議院議員のまま地元の自宅で亡くなります。このことを知った板垣は、「内藤魯一君は私一人を救ったのではなく、自由党を救ったのだ」と語ったと言われています。

 

【 内藤魯一終焉の地(豊田市内 撮影:筆者) 】

 

重役を務めた藩や県を失い、激化事件に巻きこまれて投獄され、何度も衆議院選挙に落選しつつも、その度ごとに立ち上がってきた魯一。その住居跡に建てられた銅像は太平洋戦争中に供出されて失われてしまいます。戦後となって、サンフランシスコ講和条約が世界の各国と結ばれて日本の独立が実現された年に、地元の人たちの力で銅像は再建されます。その時に地元の人たちによって作られた「内藤魯一翁寿像再建の歌」では、『自由は再びよみがえり おお先駆者のりんたる姿 再び魯一の寿像は建てり 見よや汝の気魄の魂』と歌われました。

【 内藤魯一の銅像(知立市内 撮影:筆者) 】

 

「こうして銅像は再建されたのであるが、再建に最も熱意のあった人たち、それは碧海地方の農民であった。明治用水の開削に協力し、その開拓地八千町歩が五十年間地租を免除されたのも、時の県会議長・内藤魯一の努力によるものであったことを知っていたからである」と地元の郷土史家は記しています。

現在の明治用水のほとんどは地下に埋設されてしまっていますが、矢作川からの取り入れ口周辺では、その姿を見ることができます。現在も三河の地に滔々(とうとう)と流れ出ていく明治用水のその姿を見る時、この地で自由民権運動を担った明治の先人たちの気骨と気魄を強く感じさせられた次第です。

 

【 矢作川から流れ出る明治用水(豊田市内 撮影:筆者) 】

 

【 参考文献 】

『知立の偉人伝 自由民権運動の闘士 内藤魯一』知立歴史民俗資料館

『知立市史 中巻』知立市史編纂委員会

『東海近代史研究 第3号』

『東海近代史研究 第5号』東海近代史研究会

『自由民権の闘士 内藤魯一』隅田三郎

『内藤魯一 自由民権運動資料集』知立市教育委員会

『内藤魯一 関係文書目録』知立市教育委員会

『愛知県史 通史編6 近代1』

『板垣退助』 中元崇智 中公新書

『伊藤博文』 瀧井一博 中公新書