自由民権運動の壮士たち 第13回【後編】 『伊豆を中央から遅らせるな』と地域のために力を尽くした男 依田佐二平(静岡県)
【 衆議院議員としての佐二平を描いた画 伊那下神社所蔵 】
さて、国会開設運動が行われた時期から10年経って、第1回衆議院選挙が行われることとなりました。静岡県内は7区の選挙区に分かれ、第7区の当選者数が2名である以外は、当選者数1名の小選挙区制。第7区は伊豆4郡に駿東郡(すんとうぐん:現在の沼津市、御殿場市など)を加えた範囲となりました。また当時は立候補制ではなかったため、選挙区内の被選挙権のある者すべてが候補者となりました。その中で当選への意思がある者は、演説会や懇親会を開いたり、推薦する者たちが連名で新聞に広告記事を掲載するといった選挙活動を繰り広げました。静岡7区では、佐二平と沼津の和田伝太郎【わだでんたろう:沼津の実業家。第3代県会議長を務める】と江原素六が有力な存在となりました。和田は、1回目の国会開設建白の総代の1人であり、大隈重信【おおくましげのぶ:佐賀出身の自由民権運動のリーダー】たちが創立した立憲改進党系の人。一方江原は、板垣退助【いたがきたいすけ:土佐出身の自由民権運動のリーダー】たちが創立した自由党系。この頃改進党系と自由党系の対立は激化していて、演説会の妨害などをお互いに行なうようになっていました。
そうした中で佐二平は自らを中立派として、推薦する者たちが出す新聞紙上の広告記事を一緒に掲載するなど、一部江原と共闘して運動を進めました。そして投票の結果、佐二平が1268票で1位当選、江原が807票で2位当選という結果となりました。この時の県内の選挙結果は、江原など自由党系が2名、岡山兼吉【おかやまけんきち:法学者として早稲田大学や中央大学の創立に関わる】など改進党系が2名、佐二平や岡田良一郎など4名が中立派でした。
【 第1回帝国議会の様子を描いた画 伊那下神社所蔵 】
そして、自由党系の新議員たちは「弥生倶楽部」という院内会派を結成し、改進党系は「議員集会所」という院内会派を結成しました。また、中立系や政府系の議員たちは不偏不党、中立を掲げて、「大成会」という院内会派を結成し、佐二平や岡田たち県内の中立派4名も所属します。しかし、自由党の中江兆民【なかえちょうみん:ルソーの思想を日本に紹介するなどした自由民権運動の理論的指導者】が、自らの自由党や改進党を「民党」と呼び、大成会のことを政府寄りの政党という意味の「吏党(りとう)」と呼ぶというレッテル張りを行ないました。伊豆地域における地租軽減運動や国会開設運動を現実に担ってきた佐二平からすれば、「吏党」の一員呼ばわりされるのは極めて心外だったかもしれません。
そして衆議院は1年経たずに解散されて、第2回総選挙が行われることとなりました。この時に佐二平は、政党が党利党略に走る姿に幻滅を感じて選挙活動を行なう意志を失っていたとも言われます。また、「吏党」というレッテル張りによる宣伝は県内では効果があったようで、県内にいた4名の中立派はいずれも【表2】のように大きく票を減らして落選となりました。岡田だけはそれほど票を減らしていませんが、これは岡田が第2回選挙では自由党系として活動したためとも考えられます。そして県内の議席は自由党系4、改進党系4という結果になったのでした。
【表2 中立派議員の得票数の推移】
候補者名 | 選挙区 | 第1回得票数 | 当落 | 第2回得票数 | 当落 |
岡田良一郎 | 静岡4区 | 1388 | 当選 | 1062 | 落選 |
西尾伝蔵 | 静岡5区 | 746 | 当選 | 94 | 落選 |
近藤準平 | 静岡6区 | 296 | 当選 | 11 | 落選 |
依田佐二平 | 静岡7区 | 1268 | 当選 | 257 | 落選 |
このように党利党略が優先し、政治上の駆け引きが横行する中央政治のドロドロした場は、謹厳実直な精神性を三餘塾以来培ってきた佐二平には、似合わなかったということだったのかもしれません。また当時佐二平は40代中頃で、既に豆陽学校を創立し、後に述べる製糸場や汽船会社の設立といった新しい時代にふさわしい諸改革を、地元で現実のものとして実行していました。その佐二平からすると、政府と議会側の対立が激化する一方で、国民のためになる何事かを具体的に実現出来るわけでもない国会は、魅力ある場とは思えなかったのかもしれません。その後佐二平は、衆議院議員になろうとすることはなく、地元の賀茂郡郡会議員となり、議長も務めています。しかし、この国会議員としての経験は、後で述べる伊豆への鉄道開設の国会請願活動において、大きく生かされたのも事実かと思われます。
【 依田邸前を流れる那賀川 (撮影:筆者)】
一方佐二平は、地域の交通網の発展にも取り組みました。元々依田家は江戸時代に川船を使って、自らの邸宅の前を流れる那賀川を通じて、当時は「天城炭(あまぎずみ)」としてブランド化されていた炭などの山林品を松崎湊(みなと)に運び、帆船で江戸へ運んでその財をなしていました。そこで佐二平は汽船による海路を開こうとして、36才の時に自らが社長、木村恒太郎を副社長として豆海(とうかい)汽船会社を設立します。そして、当時民間の造船所として日本で初の蒸気船を建造していた石川島造船所(現在のIHI・旧石川島播磨重工)に汽船を発注。完成した船を豆海丸と命名して、沼津(江ノ浦)から松崎港を結び、それから下田-熱海-横浜-東京という航路で汽船を就航させます。これは沼津-東京間を結ぶ初めての航路となりました。
【 当時の下田ドック 『図説下田市史』より 】
しかし、利用者も増えてきた3年目に豆海丸は座礁して破船。佐二平は第二豆海丸の建造を計画すると共に、石川島造船所から豆海丸の設計図を譲り受けて、下田で帆船や漁船を造っていた澤村造船所に発注します。これは佐二平が、地元で造船業を発展させることを目指していたためとも言われますが、その期待通りに澤村造船所は、初めて造る鉄製の汽船のために神戸から技師を迎えて建造。後に下田ドック合資会社となって、南伊豆を代表する企業となりました(1980年代末に解散)。
こうして完成した第二豆海丸は、初代と同じ航路で就航します。しかし、利用者が増えなかったため、佐二平は営業権を東京湾汽船(現在の東海汽船)に譲渡します。その後は、依田善六が駿豆汽船会社を設立して、沼津-松崎-下田の航路を維持しました。実はこの頃に、副社長を務めていた木村が肺病で亡くなっています。地租軽減運動や豆陽学校の設立運動などでずっと活動を共にしてきた木村は、佐二平よりひと回り程年上でとても心強い存在だったため、佐二平は大きなショックを受けたのではないかとのではないかと想像されます。
【 東伊豆町竹ヶ沢公園に立つ木村恒太郎の墓碑 『百二十年のあゆみ 豆陽中学 下田北高校』より 】
その後佐二平は、伊豆地方に鉄道を敷設(ふせつ)することにも取り組みます。伊豆半島西海岸に鉄道を敷くための伊豆鉄道成立委員会を結成。委員会は、参加した各村の負担金と豆南社からの借金を収入として運営されて、線路予定地の調査や鉄道局との交渉などの活動を行ないましたが、実りませんでした。
しかし、その後に賀茂郡郡会議長となっていた佐二平は、田方郡郡会議長(※その頃大区・小区は廃止されて、伊豆は賀茂郡と田方郡の2郡になっていました)と相談して、両郡会が開かれた際に有志を集めて、「伊豆国下田鉄道敷設の請願書」を、貴族院と衆議院の両院に提出することを満場一致で決定。そして、下田鉄道敷設請願事務所を下田に、その出張所を東京に設置。佐二平は、佐二平他84名(賀茂郡49名、田方郡35名)による請願書を完成させます。
それから佐二平を始めとする上京請願委員10名が上京して、貴族院・衆議院それぞれの紹介議員を訪問して請願内容を説明。その紹介議員を通して、貴族院議長・近衛篤麿【 このえあつまろ:第3代貴族院議長、第7代学習院院長を務める。後の内閣総理大臣近衛文麿(このえふみまろ)の父 】と衆議院議長片岡健吉【かたおかけんきち:板垣退助の盟友として自由民権運動に参加。第7~10代の衆議院議長を務める】に提出したのでした。
【 現在の伊豆急下田駅 (撮影:筆者) 】
その請願書の主旨は、開国時以来の下田の軍事的重要性を説明し、天城山に阻まれて道路が建設できない中で、軍事鉄道としての下田鉄道敷設を望むものでした。現実にその5年前の日清戦争時には、政府によって軍事鉄道敷設のための測量調査も行われていたのでした。佐二平たちからすれば、まずは軍事鉄道という大義の下に鉄道敷設を実現した後、伊豆半島全体の交通の便の向上と経済的発展につなげていければという思いがあったのかもしれません。
そして貴族院では採択されたものの、衆議院では参考として政府に送付すべきものと議決されるにとどまり、その後の議会での議論を期待する形で請願運動は幕を閉じました。それから約70年後の昭和30年代になって、ようやく伊豆急行が伊東から下田に開通することで、佐二平たち伊豆地域の住民の悲願は達成されることとなったのでした。
【 那賀川にある巨石の上に立つ佐二平の石像(撮影:筆者)】
このように伊豆の地域交通網の発展のために力を尽くした佐二平でしたが、その晩年は地元の交通網の整備に力を注ぎます。依田家のある大沢地区とその隣の池代(いけしろ)地区を結ぶ道路を建設した際には、郡費と村費に加えて全体の費用の約2割を佐二平が提供したといます。現在その道を依田邸から池代地区に向かって進んでいくと、隣りを流れる那賀川の中にある巨石の上に、佐二平の石像が立っています。
また那賀川に面してある山神社へ渡る宮橋は何度も流されていたため、強固な橋を架け直しました。木材は自分の山の木を使い、総工費の9割は佐二平が負担したといいます。平成になって架けられた現在の宮橋を渡った山神社内には、その時に立てられた記念碑が残っています。
【 現在の宮橋と那賀川(撮影:筆者)】
【 山神社境内に立つ宮橋記念碑(撮影:筆者)】
さて時間はさかのぼりますが、佐二平は20代後半から、地域に養蚕(ようさん)業と製糸業を広める活動を始めました。幕末の開港以来、生糸は最大の輸出品となっていたので、明治時代に入ると当時の韮山県は伊豆地方での養蚕を奨励しました。これに応えて佐二平は蚕(かいこ)のエサである桑の作付けを開始します。また、依田善六らと共に、桑の苗の無償での配布や、自費で養蚕の教師を招いて巡回指導に当たらせるなどして、地域に養蚕業を根づかせていったのでした。
【 依田善六 『百二十年のあゆみ 豆陽中学 下田北高校』より 】
こうして、生糸の原料となる蚕の繭(まゆ)が伊豆南部でも生産されるようになりました。しかし、繭を使って生糸を作る製糸工場が地元に無かったため、山梨や愛知の商人に安く買い占められてしまうという問題が生じました。そこで佐二平は、地元での養蚕業を発展させていくために、自前の製糸工場を設立することを決意します。つまり、養蚕という一次産業と製糸業という二次産業を、地域の中で融合させることによって、地域内の経済力を大きく成長させていくことを目指したわけです。
【 世界遺産になった富岡製糸場 】
そのためにまず、製糸技術を身につけるために、妹の依田みちや、後に勉三の妻となる従妹の依田リクなど6名の若き女性たちを群馬県の富岡製糸場に派遣して、2年間の研修を受けさせます。そして、松崎村の多くの水が湧き出る伊那下(いなしも)神社と浄泉(じょうせん)寺の近くに試験的に製糸工場を設立。その湧水を動力とする富岡式の製糸機械を使って、富岡製糸場に派遣した女性たちを教師として製糸場の操業を始めました。これが、伊豆地域および静岡県内における初めての民間の製糸場となったのでした。
【 現在も水が湧き出る伊那下神社 (撮影:筆者) 】
【 浄泉寺 (撮影:筆者)】
その後佐二平は、この製糸場を自邸内に移して規模を拡大。動力を水力から蒸気とする機械に改め、70名以上の職工を雇い、女工のための寄宿舎も設けました。さらに養蚕を行なうための三階建ての建物も建設しました。この時佐二平は31才という若さでした。この後、この製糸場は40年間操業を続け、輸出用の生糸を生産していったのでした。
【 製糸場で働く女性たち 道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】
そして、この成功に触発されて、地域には製糸場がいくつも設立されるようにもなりました。佐二平はその後大日本蚕糸会副会長に就任し、福岡で開かれた大日本蚕糸会総会で金杯を受賞。さらにアメリカセントルイス博では銀杯、アメリカアラスカ・ユーコーン太平洋博で金杯、日英博覧会で金杯、イタリア万博で名誉褒賞(ほうしょう)を受賞するなど、全国的だけでなく世界的にも高い評価を得るようになったのでした。
【 当時の製糸場と依田邸の全景 道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】
このように南伊豆の地域では製糸業が盛んになっていったわけですが、その原料を生産する養蚕業も盛んとなっていきました。南伊豆は気候が温暖なため桑の成長が早かったので、新しい繭の出荷も国的にも一番早いものとなりました。そのため、松崎繭市場での初取引はその年の日本全国での新しい相場の基準となり、「松崎相場」と呼ばれるようになりました。南伊豆の早く成長した繭は「松崎繭」と呼ばれ、初繭の出荷時期になると、多くの製糸家や仲買人たちが松崎に集まって、大変な賑わいとなったといいます。こうして佐二平は、南伊豆に養蚕業と製糸業を根づかせて、地域の経済を発展させることに成功したのでした。
【 現在の依田邸 (撮影:筆者)】
さて、松崎の地は、なまこ壁の土蔵や邸宅が現在も数多く残っていることで有名です。これは、冬になると海から強い西風が吹く火災に弱い地域だったため、防火への備えとして江戸時代から造られるようになったものです。江戸時代、「天下の台所」と呼ばれた大阪から大消費地である江戸へ、海路を移動する廻船(かいせん)によって多くの物資が運ばれました。その廻船が風待ちをするために立ち寄る湊の地として、また江戸城の石垣に使われた伊豆石(いずいし)や江戸城内で消費された天城炭といった地元産品を出荷する地として松崎は経済的に繁栄し、その経済力を元にして、多くのなまこ壁の建物が作られたのでした。
【 江戸城の石垣に使われた伊豆石を説明する県の看板(撮影:筆者) 】
【 松崎町にある伊豆の長八美術館 (撮影:筆者)】
そして明治時代になると、急成長した養蚕業と製糸業によって松崎はますます栄えていって、多くのなまこ壁の建物が作られました。「伊豆の長八」と呼ばれた入江長八【いりえちょうはち:江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した名工】に代表される優秀な左官職人たちの技術も、江戸時代からの海運と明治時代の養蚕業、製糸業による地域の経済力の上に花開いたものなのだと言えます。ちなみに、通称「なまこ壁通り」と呼ばれる写真の「近藤平三郎(こんどうへいさぶろう)生家の、平三郎の父近藤平八郎(こんどうへいはちろう)も三餘塾で学び、東京帝大医学部別科で薬学を学んだ後に郷里に戻って薬局を経営。佐二平たちの豆海汽船会社創立に協力して重役にもなった人物でした。
【 現在の松崎町に残る「なまこ壁通り」・近藤平三郎生家 (撮影:筆者) 】
そして佐二平は晩年、松崎の地に大きな製糸工場を建設します。これは、モーターを動力とした機械を設置した最新鋭の大工場でした。しかし、佐二平がその松崎製糸工場の社長を引退して長男が引き継いだ後に、関東大震災が起こります。この震災によって横浜にあった蚕糸の倉庫は破壊され、倉庫内に保管されていた生糸の大部分は、建物の倒壊と火災によって失われてしまいました。松崎製糸工場から横浜の倉庫に送ってあった、取引前の生糸もすべて燃えてしまって大損害を受け、その後の震災不況もあって工場は一時休業となります。そして佐二平が亡くなった後、工場は依田家から賀茂郡産業組合に譲り渡されて賀茂社と名前を改めて再開されたのでした。
【 松崎製糸場 道の駅花の三聖苑・資料館展示より】
【 松崎製糸場内の様子 道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】
その後、昭和の時代となって製糸業は衰退し賀茂社も廃業します。にぎわいのあった繭市場も休止となって、沼津の繭市場がその代わりとなりました。養蚕業も、その沼津に進出した片倉製糸紡績(現在の片倉工業)の沼津蚕種(さんしゅ)製造所などで蚕を成育させるための種繭(たねまゆ)を供給するようになり、全国規模の大企業の系列下に置かれていくことになってしまいました。もはや製糸業自体が、全国規模の大手資本によって担われる時代になっていたということなのでしょう。
こうして、養蚕という一次産業と製糸業という二次産業を、地域の中で融合させることで、地域内の経済力を発展させることを目指した佐二平の志も、明治から大正へと続いた約40年間の繁栄の末に消滅することとなってしまったのでした。
【 片倉製糸紡績沼津蚕種製造所跡 現在のカタクラパーク (撮影:筆者) 】
こうした衰退状況の中で、県立蚕業試験場の松崎分場が設置され、県による蚕や桑の品質改良や指導者の育成なども行われて、蚕業の復興が目指されます。しかし、日中戦争から始まった長期の戦争の中で食糧生産が優先されるようになったため、桑畑は減少。そして戦後は、化学繊維の普及によって、養蚕業は急速に衰えていき、現在の松崎の地にかつて繁栄した製糸業や養蚕業を思い起こさせるものはほとんど残っていません。
【 県立蚕業試験場松崎分場 伊那下神社所蔵 】
一方、綿花の栽培が盛んだった浜松地域では明治時代初期に綿織物が発達し、その後豊田佐吉【とよださきち:トヨタグループの創始者。現在の静岡県湖西市出身。「障子を開けてみよ、外は広いぞ」の言葉は有名】が発明した自動織機によって大きく発展。その技術が楽器・オートバイ・自動車産業という現在の浜松地域の産業につながっていきました。このように南伊豆でも、養蚕業から製糸業、そして織物業にまで発展していたら、この地域の産業は大きく違っていたのではないかという意見もあります。
【 県立蚕業試験場での講習生の様子 岩科学校展示資料より 】
さて、佐二平の弟である勉三は、三餘塾で学んでから上京してワデル塾で学んだ後、いったん帰郷して謹申学舎で保科頼母の教えを受けます。それから再び上京して慶應義塾に入学。この頃に北海道開拓の志を抱くようになった勉三は、帰郷して豆陽学校の教員をしたり、依田善六らと共に炭焼きの仕事を請け負ったりした後、伊豆地域から株主を募って、北海道での開拓事業を行なうための晩成社(ばんせいしゃ)を設立。善六が社長、勉三が副社長となります。その社名は「開拓の難事にして数十年の晩成を期す」という、開拓事業の困難さへの覚悟を表すものでした。そして勉三は、豆陽学校で教師を務めた渡辺勝らを加えた27名と北海道に移動。この時に船中で勉三が詠んだ「ますらおが心定めし北の海風吹かば吹け浪立たば立て」という歌にも、開拓という難事業にかけた勉三の強い意志が表されています。十勝平野に着いた勉三たちは十勝川をさかのぼって、アイヌ語で「オベリベリ(湧水が流れるという意味)」と呼ばれた地に入植。このアイヌの地名から、その地を「帯広」と勉三が名付けたと言われています。
【 依田勉三の肖像写真 道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】
この十勝平野の帯広の地で勉三たちは、最初は米や藍、シイタケ栽培などに取り組みます。これは伊豆で行なっていた農業と同様のものでした。しかし数年間は収穫がなく、その後もイナゴによる被害や冷害、水害などを受ける苦闘の日々が続きます。そうした中でも勉三は、牛や馬、豚などの牧畜、バターやチーズの製造や缶詰製造など新しい事業に取り組み、水田の開発にも成功しました。しかし、晩成社の経営は困難を極め、株主に配当金を出すことも一切出来ませんでした。そして事業を始めてから40年後には、佐二平、善六、勉三の3人で最後まで社の責任を負うこととして、10年後に会社を整理することに決めました。その後、善六、佐二平、勉三と続けて亡くなった後、佐二平の息子によって予定通り会社は解散整理されたのでした。
【 帯広市に立つ「拓聖・依田勉三」の銅像 道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】
このように晩成社の事業は失敗に終わりましたが、依田一族および伊豆地域から集められた資金によって、十勝平野の開拓事業が進められたことは事実です。そして、帯広では勉三は「拓聖」と呼ばれ、歌手の中島みゆきさんの祖父によって立てられた勉三の銅像が帯広中央公園に存在しています。また、当時晩成社が販売したバターの缶詰のパッケージが、帯広の有名な製菓会社である六花亭の「マルセイバターサンド」の包装に使われているなど、勉三たちの開拓事業の足跡は、現在でも帯広の地に残されているのです。
【 「マルセイバターサンド」 道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】
さて、依田邸のあった大沢村は明治時代の中頃に周辺の村と合併して中川村となり、昭和の中頃に松崎町と合併して松崎町中川地区となりました。その中川地区にあった中川小学校では、佐二平と勉三、土屋三餘の3名を「中川三聖」として讃えて、そのレリーフを学校内に設置。毎年11月に「三聖祭」を行なって、3人をテーマとしたお芝居を演じたり、歌を歌ったりしたといいます。中川小学校は10年ほど前に廃校となってしまいましたが、レリーフは松崎町が運営する「道の駅花の三聖苑」内に移されて、そこで毎年満開の桜の下、「中川三聖まつり」が開かれています。
【 道の駅花の三聖苑にある「中川三聖」のレリーフ (撮影:筆者) 】
現在でも地元の人たちから「中川三聖」として讃えられている、佐二平、勉三、土屋。そして、木村恒太郎や大野恒哉、小川宗助、依田善六、佐藤源吉、近藤平八郎・・。封建的な身分差のある社会を脱却し、新しい教育と産業を地域に根づかせて、多くの人が自立する新しい自由な社会を創っていこうと苦闘し努力し続けた伊豆の先人たち。その姿から、冷戦崩壊以降のグローバル化とIT革命の進展によって世界が大きく変わっていく中で、混迷と停滞を続ける現代日本の我々が学び、目指すべきことは何なのか。今も変わらぬ清流である那賀川を見つめながら、粛然たる思いを抱かされた次第です。
【 現在も南伊豆の地に流れる清流・那賀川 (撮影:筆者) 】
自由民権現代研究会代表 中村英一
【参考文献】
伊豆日日新聞連載「松崎依田家住宅の今昔、あす」橋本敬之
「松崎町大沢依田家報告書」 NPO伊豆学研究会
「ますらをが心定めし-萩原実収集 依田勉三・晩成社関係資料集」 NPO伊豆学研究会
「松崎町史資料編」 松崎町教育委員会
「松崎町史通史編」 松崎町教育委員会
「百二十年のあゆみ豆陽中学下田北高」 下田北高百二十周年記念誌編纂委員会
「百年のあゆみ豆陽中学下田北高」 下田北高百年誌編纂委員会
「総選挙はこのようにして始まった」 稲田雅洋 有志舎
「静岡県史 通史編 近現代1」
「松崎の歴史」 清水真澄
「三余塾物語」 清水真澄
「群像いず 志に生きた郷土の先人たち」 永岡治 静岡新聞社
「埋もれ火を訪ねて 第2集」 賀茂地区生涯大学葵学園
「南史」 南伊豆町南史会
「わがふるさと 東伊豆町」 東伊豆町教育委員会
「図説下田市史」 下田誌編纂委員会・下田市教育委員会
「伊豆碑文集(西海岸・東海岸編)」 桜井洋行編
「驚き、再発見 伊豆の歴史」 桜井洋行
「伝記依田佐二平の生涯 土屋要作」
「拓聖依田勉三と晩成社の人々」 杉本晃章 政経情報社
「松崎の百年」 佐藤和三
「南伊豆風土誌」 静岡県賀茂郡教育会 長倉書店
「静岡県蚕糸業沿革史」 静岡県養業取締所
「賀茂郡蚕糸業対策」 静岡県賀茂郡養蚕業組合
「静岡県蚕業記念誌」 静岡県産業技術指導所・まゆ検定所