自由民権運動の壮士たち 第13回【前編】『伊豆を中央から遅らせるな』と地域のために力を尽くした男 依田佐二平(静岡県)


【 依田佐二平(よださじべい)の肖像写真  道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】

 

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった四杯で夜も眠れず」と歌われた、ペリーによる黒船来航。その翌年にペリーは9隻の艦隊を率いて再び来航し、日米和親条約が結ばれます。その結果、現在の静岡県にある下田港と、北海道にある函館港(1年後)とが開港されました。そして、アメリカ本国や中国に向かった船を除いた7隻が、即時開港となった下田港に来航し、約70日間滞在することとなりました。

この近代日本の始まりにおける一大事件を経験した下田をふくむ地域が、伊豆国(いずのくに、以下伊豆)でしたが、この地域は明治時代となって韮山(にらやま)県から足柄(あしがら)県とされた後に廃県とされて、静岡県に合併されました。また、この頃の地域区分は、県の下に大区・小区が置かれ、その小区の中に村が存在するという形となっていました。静岡県は、12の大区に分かれていて、伊豆の君沢(くんたく)郡と田方(たがた)郡は第8大区、那賀(なか)郡と賀茂(かも)郡は第9大区とされたのでした。

 

 

【 ペリー艦隊来航記念碑 下田市ペリー上陸記念公園内 (撮影:筆者) 】

 

一方で明治政府は、地租改正という税制の大改革を断行することとなります。それは、①課税の対象をそれまでの収穫量から、収穫量に基づいて算定された地価とする。②税である地租の額は地価の3%とされ、それまでの現物納から金納とする。③地租の納入者は、それまでの耕作者から土地の所有者とする、というもの。政府は新たに地租改正事務局を設置して、この大改革に臨みました。

地租改正の具体的作業は、地価の算定基準となる収穫高の確定作業から始まります。まず最初は、土地の重複や脱落がないようにするために行なう調査(地押:ちおし)と、土地の面積を測る調査(丈量:じょうりょう)で、この作業を民間の農民側が自己負担で行ないます。その後に、村の中での土地の等級を実情に合わせて決めます。それから、まず小区の中に模範村を定めます。そして、その模範村を基準として他の村との比較検討などを行なって、他村の地位を決めていきます。それから最後に、大区内での各小区の地位を決めていきます。このように、村→小区→大区とボトムアップの形で、すべてが連環して土地の等級は決められました。そしてこの作業は、公選で選ばれた農民側総代と、区長や戸長といった大区・小区・村に設置された行政側の責任者とによって協力して行われました。

 

【 土地の所有者に与えられた地券  道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】

 

こうして地域内の土地の等級が確定されると、それを基にした収穫高の査定作業が行われます。この作業も農民側総代や区長・戸長らが協力して行ない、その結果、伊豆での田で予想される平均収穫高は一反(300坪)当たり一石一斗七升四合余り(約176㎏)となりました。

ところが明治政府は方針を転換し、「旧来の歳入を減らすことがないように」するために全国の地価・地租を先に決定。それを県→大区→小区→村というトップダウンの方式で下ろしていって地価を決めることとしました。その結果、一石二斗八升八合(193㎏)という平均収穫高を決定して、農民側に提示しました。これは、約10%もの増加。この収穫高と米価と利子率の組み合わせで地価が決定され、その地価の3%を地租として納めなければならない農民側にとって、この収穫高の大きな違いは到底納得できるものではありませんでした。

 

【 静岡県令宛に出された「御願書」 依田家文書 (撮影:筆者) 】

 

そのため、君沢郡、田方郡、那賀郡、賀茂郡という伊豆4郡の農民側の人民総代たちは、昼夜を徹して行われた当局からの説得も断固受け入れず、粘り強く交渉を続けていくこととなりました。この時、この人民総代の一人に、那賀郡大沢村(現在の賀茂郡松崎町大沢)の豪農で、まだ30代前半の若き依田佐二平(よだ さじべい)がいました。佐二平は当時、「(もし政府が提示した収穫高を基準とすれば)地租の負担は荷重となり、地主はもちろん小作人に至るまで影響はすこぶる大になるので、到底黙って許すことは出来ない。」として、4郡の農民側総代たちに檄を飛ばして有志の会合を開き、静岡県令(現在の県知事)宛に請願書を作成して、改正を要求する行動をとったと言われています。

この請願書では、まず地押や丈量から始まる事業の過程を説明。地位等級を決めていく際の農民たちの苦心と努力を説明して、4郡の農民たちが私心なく改組事業に協力してきたことを力説。その上で、政府側が提示した収穫高は認めがたいと主張。そして、「全州湧くが如きの情勢」と農民たちの意思の強固さを訴えて、県令による善処を求めました。こうした理をもって訴える文書を出す形で、官民の交渉は何度も繰り返されて数カ月に渡ることとなりました。

 

【 「御願書」の中の改組人民総代の連署 最後に依田佐二平の名が見える 依田家文書 (撮影:筆者)】

 

前に述べたように土地の等級は、村→小区→大区とすべてが「連環」する形で決められていたので、伊豆国4郡全体の地租改正に関する利害関係は個別に切り離せない関係となっていたため、4郡全体が一致して抵抗する基盤となっていたのでした。また後で述べるように、佐二平は養蚕(ようさん)業と製糸業という新しい産業を地域に根づかせる上で大きな役割を果たしていました。それと同様に、この運動の指導者層となった豪農たちは、各地域での新しい産業起こしを担っていたため、その新産業の具体的な担い手である地域の農民たちと強いつながりを持っていました。また一般の農民側には、地租改正のための調査の作業の負担が重くのしかかって、大きな不満が生まれていました。この大衆的なエネルギーが佐二平のような地域で指導的な立場にある豪農層を通じて表現されたことで、伊豆国4郡一体となった、政府に対抗する強い団結力が生み出されたと考えられています。

そして、こうした伊豆4郡の農民たちのエネルギーと団結力をバックとして、佐二平や小川宗助【 おがわそうすけ:田方郡函南(かんなみ)村(現在の田方郡函南町)の豪農】、木村恒太郎【 きむらつねたろう:賀茂郡大川村(現在の賀茂郡東伊豆町)の豪農 】、大野恒哉【 おおのつねや:賀茂郡南上村(現在の賀茂郡南伊豆町)の豪農 】といった農民側総代たちが粘り強い交渉を続けた結果、政府は譲歩を余儀なくされることとなったのです。

 

【 写真中央が木村恒太郎 右が佐二平 『百二十年のあゆみ 豆陽中学 下田北高校』より 】

【 大野恒哉の肖像画 『百二十年のあゆみ 豆陽中学 下田北高校』より 】

 

その結果、田の平均収穫高は一石二斗四升四六勺(約187kg)とされて、政府の当初案より約3%の減量(193kg→187kg)、そして田や畑、宅地を合わせると9千円もの減税を佐二平たちは勝ち取ったのでした。佐二平たちにとって、これは完全に満足できる数字ではありませんでしたが、長期にわたる闘争で支出が増大していたことや、西南戦争の影響で米価が上昇していたため地租は相対的に減少する状況にあったことなどから、妥協が図られることとなりました。

しかし、西南戦争で完全な勝利を収めたばかりの巨大な新政府に対して、理をもって対決して実際に減税を勝ち取ったというこの体験は、闘争に参加していた農民たちにとって大きな政治体験となり、政治的関心を高めた佐二平や木村、小川、大野たちを中心とする国会開設運動がこの地域で巻き起こっていくことにつながったのでした。

 

【表①】(予測された平均収穫高の推移)

①     農民側の予測高 ②     政府側予測高 ③    妥結した予測高
一石一斗七升四合余り

約176㎏

一石二斗八升八合

193㎏(①の10%増)

一石二斗四升四六勺

約187kg(②の3%減)

 

そして西南戦争が終わった後、いったん収まっていた自由民権運動が再び盛り上がってきます。静岡県会が開設される直前の時期には、参同社(さんどうしゃ)という演説結社が結成され、静岡県を構成する駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・伊豆の3つの国の民権家が集まって演説会が行われ、終了後には懇親会も開かれました。その名前と活動の内容から分かるように、その目的は、駿河・遠江・伊豆の有志が集まって、演説会を開いて親睦を結ぼうというもの。それまで、地租改正反対運動でも国単位での活動が行われていた壁を突破して、静岡県全体で一致して行動していく流れを作ろうという狙いがありました。駿河からは磯部物外【いそべもつがい:初代県会議長を務める】、遠江からは足立孫六【あだちまごろく:「自由民権運動の壮士たち 第11回」参照】や岡田良一郎【おかだりょういちろう:第1回帝国議会で衆議院議員を務める】、伊豆からは佐二平などが参加していました。

 

【 道の駅・花の三聖苑内に立つ佐二平の銅像 (撮影:筆者) 】

 

この参同社の活動によって、県内の民権家のつながりが生まれると共に、各地域で演説結社が成立していくこととなります。浜松(遠江)では丸尾文六(まるおぶんろく:「自由民権運動の壮士たち 第12回」参照」)も参加した己卯社(きぼうしゃ)、藤枝(駿河)では扶桑社(ふそうしゃ)、静岡(駿河)では静陵社(せいりょうしゃ)、沼津(駿河)では江原素六(えばらそろく:「自由民権運動の壮士たち 第10回」参照)も参加していた沼津観光社といった数多くの演説結社が県内で成立していく中で、南伊豆では豆南社(とうなんしゃ)が結成されました。

元々地元の若者たちが文明開化の時代に対応していくために作った共和会という会があって、貧富や年齢に関係なく集まって時事を語り親睦を深める会として活動していました。この会が地域と会員数を拡大して豆南社と改称したのでした。ただし豆南社では、他の演説結社とは違って政談演説は行わず、演説のテーマは教育と産業振興に限られていました。この豆南社に集った若者たちが、後に述べる製糸場の開設や学校の創立といった佐二平の諸事業に大きく関わっていったと考えられます。そして豆南社は、第二次世界大戦頃まで長く活動を続けたようです。

 

【 函南町の興聖(こうしょう)寺にある小川宗助の顕彰碑 (撮影:筆者)】

 

こうした演説結社の活動が広がっていく中で、国会の開設を求める署名活動が県下でも始められることとなりました。当時賀茂・那賀郡長となっていた佐二平は率先して同志を募り、地租減税運動の時の総代仲間だった木村恒太郎や、小川宗助たちとたちと共に署名運動を始めます。そして、伊豆全体の町村連合会の場で協議した結果、伊豆を21区に分けて町村連合会の議員52名がそれぞれ区の中心となって署名を集めていくことを決定。「伊豆地域の国会希望者連は日々益々数を増やして盛んなる」と報じられるような、盛んな署名運動が展開されました。

その結果、静岡県全体で約1万5千7百名分の署名が集まりました。そして、「人民は天下の大本であり、人民を国政に参与させる国会開設は、天地の公道、開明諸国の通義であり、内外とも困難を抱える日本の現状を打開する道は憲法制定、国会開設にある」とする建白書が、木村と小川を含む8名を代表者として、県令(当時の県知事)の添え書きをも得て、県庁を通して元老院【げんろういん:国民からの意見である建白書を受け付ける窓口となっていた】に提出されたのでした。

その翌年、いわゆる「開拓使官有物払い下げ事件」【薩摩出身の北海道開拓使長官黒田清隆(くろだきよたか)が、約1400万円余の費用で手に入れた船や鉱山などの官有物を、薩摩出身の五代友厚(ごだいともあつ)らの会社に約40万円で払い下げようとして政治問題化した事件】をきっかけとして、国会開設運動は大きく盛り上がり、今度は新たに集めた署名を加えて約1万9千名の署名をもって、木村や丸尾文六ら7名の総代が上京。その途中で、運動の勢いに押された政府から、10年後の国会開設と官有物払下げの中止が発表されますが、7名はそのまま上京して元老院に建白書を提出したのでした。

 

【 土屋三餘の肖像画 道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】

 

こうした運動に佐二平と共に参加した若者たちの何人かは、幕末に南伊豆の地に存在した三餘(さんよ)塾で学んだ者たちでした。那賀郡中村(現在の松崎町那賀)に生まれた土屋宗三郎(つちやそうさぶろう)は、農民を軽んずる武士の姿に憤激。「農民に学問が足らないので対抗できないのだ。農民が侍から軽んじられる世の中を、農民への教育によって変えていく」という志を持って、江戸に出て東堂一条【とうどういちじょう:儒学者】の塾に入塾します。

この東堂は、ペリー来航時にその対応の中心を担った老中阿部正弘のブレーンも務めていました。ペリーへの対応に苦慮する阿部に対して東堂は、「各大名を集めて会議を開いて方針を定めるべき」と進言したとも言われています。そして阿部は、各大名を集めてペリー問題への意見を聞くという、江戸幕府が始まってから初めての開かれた議論の場を設けました。ここから「公論」(みんなで意見を出し合う)という考え方が生まれ、それが明治政府による五カ条の御誓文【ごかじょうのごせいもん:明治政府の基本方針】の中の「万機公論に決すべし」という一文につながり、これを根拠として国会開設を求める自由民権運動が始まったとも言われています。

 

【 東堂から土屋に贈られた書 三餘塾資料館所蔵 (撮影:筆者)】

 

こうした思想性を持っていた東堂の下で修行に励んだ土屋は、江戸で大名に呼ばれて講義をするまでの存在になりましたが、自らの初心を貫くために郷里に戻ります。そして、「人の天分に上下の差はない。士が尊く農民が賤しいという理(ことわり)はない。」「現在の境遇に優劣があるのは教育の有無によるのだ」「士と農民の境界を撤去するには、農事が行えない三余(夜、雨の日、冬)の時間に子弟を教育し、その器を大成させ武士に対抗させることだ。」という信条の下に、名前を土屋三餘と改名して三餘塾を開塾します。

 

【 現在の土屋邸内にある三餘塾資料館 (撮影:筆者)】

 

土屋は全寮制の塾で塾生と24時間生活を共にし、ご飯とみそ汁と漬物だけという三度の食事を三餘自らが調理。風呂は月三度で、年少の者から入浴していって最後に土屋が入浴するといったように、その教育姿勢は封建的身分制を否定すると共に謹厳実直(きんげんじっちょく)、現代で言うところの極めてストイックなものだったようです。そして土屋は塾生を「さん」と敬称で呼ぶなど威張ることは全くなく、ある年には男子50人、女子15人が学ぶ名門塾となったといいます。こうした教育を受けていく中で、佐二平たちは封建思想からの解放と同時に、自らを厳しく律する強い自立心を培っていったようです。

 

【 土屋邸近くの西方寺門前にある土屋の顕彰碑(題字は勝海舟によるもの) (撮影:筆者)】

 

佐二平は土屋の高弟となり、佐二平の弟の依田勉三や、分家の依田善六【 よだぜんろく:那賀郡松崎村(現在の松崎町松崎)の豪商 】、地租軽減運動の時の農民総代仲間の大野恒哉などもこの塾で学びました。また土屋は下田まで黒船を見に行って、和紙と筆を交換して船員たちからライターやビール瓶などをもらっています。この時佐二平も同行したという説もあるようですが、佐二平たちが土屋から海外へまで広く目を向けることを学んだのは確かなことなのかもしれません。

また、同じ頃に下田を訪れた長州藩(現在の山口県)の吉田松陰【よしだしょういん:松下村塾(しょうかそんじゅく)で明治維新の原動力となる多くの人材を育成】は、黒船に乗ってアメリカへの密航を企てますが失敗して、奉行所に自首。罪人として長州藩に戻されて、実家に幽閉される中で松下村塾を開いて身分差別のないストイックな教育によって多くの人材を育てました。海外へ目を向ける視野の広さやその教育手法、そして新しい時代を担う多くの人材を育てたことからしても、三餘塾は「南伊豆の松下村塾」だったと言えるのかもしれません。

こうした土屋三餘の教えに大きな影響を受けた佐二平たちは、その教えと精神を生かして豆南社での活動に参加し、南伊豆のために様々な活動を行なっていったのでした。

 

【 土屋が黒船の船員たちからもらったライターとビール瓶 三餘塾資料館所蔵 (撮影:筆者)】

 

土屋の死後に明治の世となって、佐二平は新しい時代の教育を行なう場として、岩科(いわしな)村の佐藤源吉(さとうげんきち)など周辺の村の仲間と共に、謹申学舎(きんしんがくしゃ)という地域独自の学校を創立します。塾長には会津藩の家老だった保科頼母(ほしなたのも)が就任して漢学を教え、旧静岡藩士の山川忠興が英語や数学を教えました。伊豆地域において英語が教えられたのは、この謹申学舎が初めてだったと言われています。

 

【 謹申学舎に集う人々 道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】

【 謹申学舎規則 依田家文書 (撮影:筆者) 】

 

謹申学舎には6才から40才までの100名以上の生徒が集まって栄えますが、小学校令が出されて公立小学校が開校することとなったので、2年半ほどで閉校となります。これを惜しんだ佐藤は、岩科村のお寺に学舎を移しますが、間もなくこれも廃止となります。しかし佐藤は、岩科村に開校する公立小学校の校舎建築に尽力し、現在国の重要文化財となっている「岩科学校」を地域の力で建設したのでした。その「岩科学校」を訪れて目を引いたのは、校歌にも取り入れられている「岩科起て」という言葉。この言葉は佐藤や佐二平とは直接関係ありませんが、その強い自立心を感じさせる言葉からは、地元の子どもたちが新しい時代を新しい知識のもとにたくましく生き抜いていくことを期待して、自力での学校創りに力を注いだ佐藤や佐二平たちの時代の精神を感じさせられました。

 

【 佐藤源吉 岩科学校展示資料より 】

 

【 国の重要文化財である岩科学校 (撮影:筆者) 】

 

一方佐二平はその後、大沢村の自らの邸内に私財を投じて洋風2階建ての校舎を建築し、大沢学舎という公立小学校を創立します。そして、父兄を集めて新しい時代にふさわしい教育の必要性を説き、子どもたちを学校に通わせるよう説得します。当時は学校にかかる経費は地元負担とされたため、経済的に維持できずに廃校になったり、子どもは農家における貴重な労働力であったため、就学率が低い地域もありましたが、佐二平の努力によって地元の経済的負担は軽くなり、就学率も向上しました。この洋風校舎は、その後村役場の庁舎として利用されたりしましたが、現在は、道の駅・花の三聖苑の敷地内に保存されています。

 

【 道の駅・花の三聖苑内に残る大沢学舎の校舎 (撮影:筆者) 】

 

このように南伊豆の地域でも小学校は整備されていきましたが、中学校は存在していませんでした。佐二平は、小学校を卒業した子どもたちがさらに地元で学び続けることが出来るようにするために、中学校を創立することを計画します。そして、「伊豆を中央から遅らせるな」を合言葉にして仲間たちと力を合わせて奔走し、佐二平、木村恒太郎、大野恒哉、佐藤源吉、依田善六などを筆頭に、合計110名以上から寄付金を集めて豆陽(とうよう)学校を創立します。そして、私立学校としての開業願いを木村、善六、佐藤など9名を総代として県庁に提出。当時郡長を務めていた佐二平と郡書記を務めていた大野が、県庁との橋渡し役として働いた結果、豆陽学校は正式な私立学校として開校されることとなったのでした。

 

【 豆陽学校の開業願い 左側に郡長依田佐二平 郡書記大野恒哉の名が見える『百二十年のあゆみ 豆陽中学 下田北高校』 より 】

 

開校当初は依田勉三が歴史を教え、東京のワデル塾【宣教師ヒュー・ワ『百二十年のあゆみ 豆陽中学 下田北高校』デルが設立した英学塾 】で勉三と知り合った渡辺勝【 わたなべまさる:後に勉三と共に帯広開拓に従事 】が英語を教えました。豆陽学校はその後、県立中学や県立中学の分教場などになりますが、県によって一方的に廃校にされようとされたため、再び私立学校となるなどの紆余曲折を経ます。

 

【 明治前半期の豆陽学校 道の駅花の三聖苑・資料館展示より 】

 

そして、再度私立学校となってからの豆陽学校は、ある年には生徒数が7人にまで減少するなど、不振を極めるようになってしまいました。そのため、当時校主を務めていた佐二平が地元の下田銀行に頭を下げて、学校の維持費を借りるということも何度かあったようです。その後、校主である佐二平から豆陽学校を郡立中学とする願いが郡に出され、郡会と郡長の賛成を得て賀茂郡立中学豆陽学校になってからは、不振の状況を乗り越えることとなりました。こうして郡立豆陽学校となるまでの10年間、佐二平は校主を、大野も校長や校主を務めて豆陽学校を支え続けたのでした。

 

【 現在の県立下田高校  (撮影:筆者) 】

 

このように豆陽学校は、「有志の尽力と一般人民の希望と義気」(百二十年のあゆみ 豆陽中学 下田北高校)によって創設、維持されてきた学校であると評価されています。地域の大衆の希望と義気に基づいて、木村や大野、佐二平といった自由民権家たちの尽力によって創立、維持されてきた豆陽学校は、現在は県立下田高校として地域に存在し続けています。

 

【 下田高校を見守る佐二平の銅像(撮影:筆者)】

 

現在の下田高校の構内には、その同窓会である「豆陽会」の人たちによって佐二平と勉三の銅像が立てられていて、日々現在の南伊豆の高校生たちの活動を見守っています。ちなみに下田高校の校訓は、『至誠:何事にも誠実に取り組む。雄飛:広く日本や世界で活躍する。献身:地域のために尽くす。』となっていて、まさしく後に述べるような佐二平や大野や勉三たちの活動の原動力となった、三餘塾以来の精神が受け継がれていると感じさせられました.

 

【 下田高校構内に立つ佐二平と勉三の銅像 (撮影:筆者)】

 

ちなみに、佐二平たちの銅像のそばに立つ石碑に刻まれた「豆陽学校」の文字は、中村正直によるもの。中村は、イギリスの著述家スマイルズの『自助論(Self-Help)』を翻訳した人で、「天は自ら助くる者を助く」で始まる翻訳本の『西国立志編』は、当時の自由民権家など多くの人々に読まれたベストセラーでした。その中村によって書かれた「豆陽学校」の額は校長室に飾られてきたそうです。

 

【 下田高校に残る中村正直による豆陽学校の書  (撮影:筆者) 】

 

(後編につづく)