自由民権運動の壮士たち 第12回 地域にお茶という新しい産業を根づかせた男 丸尾文六(まるおぶんろく)


【 丸尾文六 Wikipediaより 】

 

「箱根八里は 馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と歌われた大井川は、江戸への西からの攻撃に対する防衛のために、橋は架けられず、渡し船も禁止されていました。そのため大井川を渡る時は、川越人足(かわごしにんそく)を雇って、その肩車や台に乗せてもらって渡る制度となっていました。大井川の東側である島田(しまだ)と、西側である金谷(かなや)の宿場町には、それぞれ多くの川越人足が働いていたのですが、明治時代となって新政府はこの制度を廃止。橋を架けることと渡し船の禁止を解除します。約600人いた金谷宿の川越人足たちは、地元で醤油醸造業を営む仲田源蔵(なかだげんぞう)を代表として政府と交渉します。

 

【 静岡県島田市にある川越遺跡の石碑 (撮影:筆者)】

 

その結果政府は、川越人足たちの失業対策事業の一つとして、大井川に面する牧之原(まきのはら)台地にある荒野の開墾事業を行なうことを決定します。現在では全国でも有数のお茶の生産地となっている牧之原台地ですが、この当時はお茶の生産はまだ盛んになっておらず、広大な荒野が残っていたのです。そして、城東郡池新田村(きとうぐんいけしんでんむら)の丸尾文六(まるおぶんろく)ら周辺の豪農4名に、その事業の世話役になってほしいという依頼がなされます。これを受けて丸尾たちは、『窮民御級地仕法』という事業の計画書を作成します。

 

【 島田市金谷地区にある仲田源三の石像 (撮影:筆者)】

 

その計画は以下のようになっていました。『①川越人足100名(=100戸)を事業の対象とする。②1人が1日で10坪(33㎡)、1年間で1町歩(3300坪・9900㎡)を開墾して、全体で100町歩(33万坪・99万㎡)の開墾を行なう。②その開墾した土地の2割となる2反歩(600坪・1980㎡)を私有、残りの8割の8反歩(2400坪・7920㎡)を小作地とする。③2年目から米や茶などを栽培していく。③開墾と栽培の手当てとして、一定の米と銭を補助する。④4年目からは米と銭の補助を止めて自立を図ると共に、補助された米と銭を小作料によって返済していく。④11年目で返済を完了させて、人足たちの自立を達成する。』このようにして川越人足たちを救済しようという計画だったのですが、そのために丸尾ら世話人たちは、巨額の資金を投ずる必要があり、その代わりに、開墾地の大部分は世話人たちの所有地となることが見込まれていました。

 

【 丸尾たちが作成した『窮民御級地仕法』 丸尾家文書・御前崎市教育委員会所蔵(撮影:筆者) 】

 

この計画に基づいて現地の調査が行われ、対象となる土地は3つに分割され、人足たちも3つのグループに分けられました。静岡藩からは人足1人あたり10両の支度金が世話人に与えられ、丸尾は33人(戸)の人足たちを引き受けることとなりました(以下、丸尾組)。33戸には入植を開始した日に3両ずつの準備金が配られ、「炎熱で焼けるような日に集まった人民は、その日のうちに茅屋(ぼうおく:あばらやのこと)を建てて、夜には寝られるようにしたが、その速さには驚かされた」と丸尾は述べています。

 

【 丸尾組川越人足33名の名簿 丸尾家文書・御前崎市教育委員会所蔵 (撮影:筆者) 】

 

そして人足たちは、鍬を使って土地を切り起こす作業を始めましたが、「人足たちは川越を業として鍬を使ったことなどない者たちだったので、その拙さは笑うのをこらえ、憐れむのをこらえなければならなかった」と丸尾が述べたような実情だったため、開墾をあきらめる者も出て来てしまいました。しかし、開墾を継続していく強い意志を持った15戸の者たちは、金谷宿にある家や、周辺の村で買った古い家を開墾場に移築して、家造りを始めようとします。彼らは、丸尾たちに1人平均13両の借金を申し込み、返済の一部は支度金の残りの7両をあてることとしました。一方、開墾をあきらめた19戸には7両が渡されて、その資金を元に他の仕事を始めることとされました。

このように丸尾組は、開墾を続ける15戸とあきらめる19戸に分かれましたが(丸尾組の数は34戸に増えていたよう)、全体としては33戸と67戸に分かれ、最初の予定の100戸のうちの33戸によって、牧之原の開墾作業は行われていくこととなります。その後、他の組から5戸が丸尾組に移り、それからは20戸の人足たちが丸尾の指導の下で開墾作業を行なうこととなりました。

 

【 現在の牧之原から望む大井川 写真の中央付近で川越が行なわれた(写真:筆者)】

 

これとは別に、静岡藩出身の士族による開墾事業も行われていましたが、一人一人に開墾する土地が与えられた士族とは違い、丸尾組全体で組織的に開墾事業は行われていきました。丸尾の立てた計画の下で、人足たちが集団として開墾作業を行ない、作業に必要な物資は丸尾が用意し、人足やその家族たちの生活に必要な米や衣服なども丸尾から直接支給されたようです。

その作業とは大きく3つに分かれていて、①雑木を切り倒して根っこを掘り起こし、取り除く作業。②木や根っこが取り除かれた土地を、鍬などで刻んでいく作業。③土の中に残っている石や根っこなどをふるい落として、整地していく作業。現在ならば重機などで行なえるこうした作業を、鍬や鋤などの道具を使って、人の力で行なっていく地味でキツイ作業が、辛抱強く4年間続けられていきました。その結果計画通りに、人足1人に2反歩の農地と宅地の5畝歩(150坪・495㎡)が配分され、自立化へのメドが立つようになっていきました。そして、茶園の造成が順調に進むと共に、植えた茶の木も成長していって、3年目には茶の木からの茶摘みが行われるようになり、摘んだ葉をお茶にする製茶作業もわずかながらも始められることとなったのでした。

 

【 開墾された土地(丸尾原)にある仲田(左側)と丸尾の顕彰碑 (撮影:筆者) 】

 

元々丸尾は父親から、「我が国の物産を起こすには茶が最良である。ぜひとも茶樹を植えるべき」と教えられて、かなりの規模の茶の栽培を行なってはいましたが、製茶作業に関してはほとんど経験がありませんでした。そこで丸尾は、義理の弟である丸尾文七を千葉県の東金町(現在の千葉県東金市)にあった大野茶園に派遣して学ばせたり、「民間自由の一大農誌」と称する「農業雑誌」を発行していた津田仙【 つだせん:農学者、津田塾大学を創設した津田梅子の父 】と一緒に入間県の狭山(現在の埼玉県狭山市)にある本色茶直輸会社を訪れて、製茶作業の方法や輸出について学んだりしました。

 

【 津田仙 Wikipediaより 】

 

そして、入植してから8年目に東海道巡幸(じゅんこう:天皇が各地を見回って歩くこと)を行なった明治天皇の一行が静岡を訪れた際には、「窮民を助け、茶園数十町歩を開き、御国の殷富(いんふ:栄えて豊かなこと)を計り、道路を修めて物産の興起を謀るとは奇特の至り」と右大臣岩倉具視(いわくらともみ)から丸尾は、直接口頭で褒詞(ほうし:ほめたたえる言葉)を受けます。その翌年に横浜で開かれた第1回製茶共進会に、丸尾は開墾場の茶を出品し、一等褒賞を受賞。与えられた百円の賞金を開墾者たちと分け合って喜びを分かち合ったといいます。その4年後の神戸で開かれた第2回製茶共進会でも、再び一等金杯を獲得。「手もみの手術の巧みなことは全国に冠たり」と称賛されました。

 

幕末の開港以来、お茶は生糸と並ぶアメリカへの重要な輸出品となりました。元々はイギリス人が愛飲していたミルクが高価だったため、紅茶を入れてカサを増す飲み方が流行します。その文化が植民地であるアメリカでも広まり、多くの紅茶がイギリスからアメリカへ輸入されるようになり、その紅茶にイギリス側が関税をかけたために、怒ったアメリカ人たちによって港に停泊していた船から茶箱が海に投げ捨てられるという、有名なボストン茶会事件が起きます。そうしたアメリカ向けに日本のお茶が大量に輸出されるようになったわけです。

そして江戸時代は、外国商人の活動は開港した港の周辺に限定されたため、日本の商人は横浜にある外国商館に製茶を売りこみ、外国商館では買い入れた製茶を外国人向けに再製してから、アメリカへ船で輸送していました。明治時代の前半、アメリカへの輸出茶の60~70%が横浜港から出荷され、その半分が静岡県産の茶だったと言われた中で、牧之原一帯では、輸出用の茶の栽培と製茶事業が急成長していったのです。

 

【 謙受社の幹部名簿(右から2番目に原崎源作 5番目に丸尾文六の名前) 丸尾家文書・御前崎市教育委員会所蔵(撮影:筆者) 】

 

丸尾は、こうした状況をふまえ、地元に港を開くと共に、その港に至る道を整備して地域の茶を集め、港から汽船で横浜港に直接運ぶことを考え出しました。この時に丸尾は、謙受社(けんじゅしゃ)という物産・運輸会社を創設して社長となります。そして、この会社の事業として、自然な状態で使われていた地頭方(じとうがた)の湊を人工的な港として整備。そして、江戸時代に横須賀藩があった横須賀(現在の掛川市横須賀地区)から地頭方港に至る横須賀街道を、荷車や人力車が通りやすくするように、砂利を敷いた固い道路に改修する事業を行ないます。

 

【 現在の地頭方港 (撮影筆者) 】

 

【 現在の横須賀街道 (撮影筆者) 】

 

さらに、この街道の途中にある菊川(きくがわ)を渡る国安橋(くにやすばし)を荷車や人力車が通ることが出来て、洪水にも耐えられるように架け直すことを計画します。その費用は、車が橋を渡る際に払う料金で、10年で回収する計画を立てて実行しました。謙受社は、米や茶、梅干し、砂糖といった地域の特産品を港に集め、汽船(きせん:蒸気機関で進む大型の船)と契約して、横浜や東京に船で運んで利益を上げました。このように丸尾たちは、現代のようにすべてを税金に頼るのではなく、自分たちが起業した民間企業の経済活動によって、地域のインフラを整備していったのでした。

 

【 現在の国安橋 (撮影:筆者) 】

 

【 県令宛に提出した「国安橋架橋願」 丸尾家文書・御前崎市教育委員会所蔵 (撮影:筆者) 】

 

そして丸尾は、「汽船謙受丸社中(きせんけんじゅまるしゃちゅう)」を結成して、本社を池新田村に置きます。謙受社による港整備と道路や橋改修事業によって、地域の物資は地頭方港に集まるようになってきました。これを自分たちの力で横浜や東京へ運ぼうと考えた丸尾は、謙受丸という汽船を購入するための組織を結成したのでした。

結成時に集まった株主は130名で、頭取には丸尾が就任。株主には天竜川より東側の地域の豪農たちが名を連ねていました。このような各地の豪農たちを中心とする地域の経済力によって生産された物資が、整備された街道を通じて地頭方港に集められ、自分たちの汽船によって横浜などへ運送されて経済的発展をとげる。こうした、天竜川より東側の遠州地域での地域経済圏を確立していくことが、丸尾の構想の中にはあったのではないかと言われています。そして翌年、汽船謙受丸が完成して地頭方港に入港。翌日開かれた祝賀会で丸尾は、「皆さんの来会を得て、酒と肴を準備して、喜びをともにして、今後我が社の隆盛が来ることを希望します」といった内容の祝辞を述べ、その喜びを多くの株主たちと分かち合いました。その後、「汽船謙受丸社中」は鴻益社【 こうえきしゃ:「鴻益」は多くの人に ゆきわたる利益という意味 】と名を改めて、遠州地方における、汽船による本格的な運送会社として事業を継続していったのでした。

 

【 鴻益社の書類  丸尾家文書・御前崎市教育委員会所蔵 (撮影:筆者) 】

 

こうして、自分たちの力で開墾した土地で茶を栽培し、それを製茶とした商品を地域一帯から港に集めて横浜に運送し、アメリカに輸出するという丸尾の構想は実現化されたのでした。しかしその頃、西南戦争の戦費を調達するために紙幣が大量に発行されたことによるインフレを解消するために、大蔵大臣松方正義によるデフレ政策が始められ、このいわゆる松方デフレによって米価など農産物の価格が下落して、農村は深刻な不景気に襲われることとなりました。

 

【 丸尾文六茶園之真景「日本博覧図静岡県初篇」 丸尾家文書・御前崎市教育委員会所蔵  】

 

こうした危機的状況の中で丸尾は、茶園の経営スタイルを大きく変える選択をします。それまでは、人足出身の農民たちを雇う形で大規模な茶園と製茶場を経営していました。まず、この17戸となっていた人足出身の農民たちを、その経済力によって①:完全自営化する、②:月10日は丸尾の下で働き残りは自営、③:月20日は丸尾の下で働き残りは自営するという3つのグループに分け、そのやり方が定着するまでの7カ月間は補助金を出すこととしました。

こうして丸尾の指導の下に人足出身の農民たちが働くという大経営スタイルから、茶園の大部分を人足出身の農民たちと周辺の農民たちに小作地として貸し出すという小作経営スタイルへ転換。このような生産システムの合理化を実現して、丸尾は危機的状況を乗り越えます。こうして、入植から10数年をかけて、『窮民御級地仕法』で構想された川越人足たちの自立化は達成され、開墾された土地も構想通り丸尾家の茶園となったのでした。

 

【 輸出に使われた茶箱の復元品 菊川赤レンガ倉庫展示より (撮影筆者) 】

 

ところが、アメリカへの製茶の輸出が急成長していたために、その一部に粗悪な作りのものが出回るという問題が起きました。アメリカの国会で『贋製茶輸入禁止条例』が成立する程の状況となり、日本茶の評判は落ちて、製茶の価格は下落します。こうした状況に対して丸尾は、外国商人を通さずに製茶をアメリカへ直接輸出することで対応していこうとします。元々大久保利通(おおくぼとしみち:明治初期の明治政府のリーダー)は、「海外直売の基業を開くの議」という建議書を出して、外国商館を通さずに直接輸出を行なうことによって、日本が側の利益を増やし外貨を稼いで財政を安定させることを提案していました。

 

【 菊川駅近くに保存されている富士製茶株式会社の赤レンガ倉庫 (撮影:筆者)】

 

そして静岡県内では、沼津で活動していた江原素六【 えばらそろく:『自由民権運動の壮士たち 第10回』参照 】たちが積信社(せきしんしゃ)を結成して、このアメリカへ製茶を直接輸出する事業に取り組んでいました。丸尾が住む池新田村の隣りにある比木村(ひきむら:現在の御前崎市比木地区)の萩原佐吉(はぎわらさきち)は、積信社を訪れて江原たちから輸出事業について教えを受けます。

そして、萩原を中心に丸尾も加わって有信社(ゆうしんしゃ)を結成。有信社の輸出事業は、地元で生産された製茶を、積信社と三井物産を通じてニューヨークで販売する形で始められましたが、3年目にアメリカでの茶価の暴落に直面、価格変動に対応するだけの資金力を欠いていたため経営を維持できなくなってしまいました。また、積信社も数年後に経営に行き詰まり、江原は多くの負債を抱えることとなったのでした。

丸尾はその後、静岡市で製茶貿易商を営んでいた尾崎伊兵衛(おざきいへえ)たちと、有信社よりもずっと規模の大きい静岡製茶直輸(じきゆ)会社を設立して取締に就任しますが、これも4年ほどで解散に追い込まれてしまいました。

 

【 静岡市にある静岡浅間神社の境内に立つ丸尾の顕彰碑 (写真:筆者)】

 

一方、地頭方港のある地頭方村にあった謙光社(けんこうしゃ)は、横浜の外国商館への製茶の売込み事業を営んでいましたが、丸尾を社長に迎え、アメリカへの直接輸出に取り組みます。社員だった原崎源作【はらさきげんさく:榛原郡地頭方村(現在の牧之原市)出身。後に静岡県茶業組合会議所副会頭を務める】や安田七郎【やすだしちろう:小笠郡大池村(現在の掛川市)出身。7年後サンフランシスコで死去】は、渡米を志しますが会社の許可が出ませんでした。そこで安田は謙光社を辞めて単身サンフランシスコへ渡米。アメリカ人の家庭で、住み込みで働きながら英語を習得し、日本茶の試販を行なってその可能性を確信します。

 

【 富士商会サンフランシスコ支店 左端が原崎 『原崎源作 私の茶業生活』より (撮影:筆者)】

 

帰国した安田は、原崎と共に、丸尾や岡田良一郎【おかだりょういちろう:掛川銀行頭取、静岡県会議長、衆議院議員などを務める】らを説得してその協力を得て、富士商会を横浜で結成し、サンフランシスコに茶と雑貨を販売する店を構えます。そして、謙光社は富士商会に合併されて、丸尾が頭取、原崎が横浜本社支配人、安田がサンフランシスコ支店主任となりました。この頃安田は20代後半、原崎は30才になったばかりの何の学歴もない若者でした。そうした自分の力で世界へ挑戦していこうという気概を持った若者たちによって、アメリカへの直接輸出事業は推し進められていったのです。

 

【 富士合資会社明治37年度営業報告書 「米国オークランド支店」の記述が 丸尾家文書・御前崎市教育委員会所蔵 (撮影:筆者)】

 

その後富士商会は、富士合資会社(後に富士製茶株式会社)へと改称していく中で、順調に成長。東海道線の堀之内駅(ほりのうちえき:現在の菊川駅)の近くに本店と工場を置き、一時期はサンフランシスコとオークランドなどに店を開く程となり、日本からの製茶輸出の約4%を占めるまでに成長したのでした。このように堀之内駅から東海道線を利用して清水港へ製茶を移動させて、そこからアメリカに直接輸出するようになっていたわけですが、この頃には製茶を運ぶ中心は汽船から鉄道に移っていました。したがって、その影響で丸尾たちが設立した汽船会社鴻益社も、その役割を終えて解散されていたのでした。しかし丸尾が追い求めたアメリカへの製茶の直接輸出は、幾多の失敗を乗り越えて、とうとう成功に至ったのでした。

 

【 富士製茶社堀之内工場 NPO法人菊川まちいき所蔵 (撮影:筆者) 】

 

このように地域に茶産業を根づかせるために力を尽くしてきた丸尾ですが、地租改正が始まって以来の減税を求める運動といった政治活動にも、地域のリーダーとして参加していました。地租改正をめぐる議論をするために当時の浜松県では、公選民会(選挙による議会)を開くこととなりました。そして、浜松の玄忠寺に丸尾ら浜松県下の小区長(※当時は大区小区制がひかれていた)が集まり、県の担当者となっていた足立孫六【 あだちまごろく:『自由民権運動の壮士たち 第11回』参照 】 から出された案を元に議論。その結果、各小区で満15歳以上の男女の戸主を有権者とする選挙が行われて小区議員が選出され、その小区議員による選挙で丸尾は議長となって大区会の議員となり、大区会でも議長に選ばれて浜松県民会の議員となります。そして民会議員たちは、議長に岡田、4人の幹事の1人に丸尾を選出します。

浜松の普済寺で行なわれた開場式で丸尾は、「ああ幸せなるかな我が県の人民は。この会に列席した各君は、この美挙に際して心を合わせて力を一つにして物事に取り組んで、官民の鴻益を計ろう」と祝辞を述べました。この後浜松県が静岡県に統合されたため、浜松県民会は遠江国(とおとうみのくに)国州会と名前を変えて継続されます。そして、地租の減額を求める中心的組織として、活発な議論と行動を行なっていきましたが、静岡県会の開設によって消滅してしまいました。

 

【 丸尾が記した『公撰民会日誌』 丸尾家文書・御前崎市教育委員会所蔵 (撮影:筆者)】

 

一方、静岡県会の開設直前に、参同社(さんどうしゃ)という演説結社が結成されます。ここには、静岡県を構成する伊豆・駿河(するが)・遠江の3州の民権家が集まって演説会が行われ、終了後には懇親会も開かれました。この参同社の活動によって、県内の民権家のつながりが生まれると共に、各地域で演説結社が成立していくこととなります。

当時の民権家には、士族出身と豪農出身の二つの流れがありました。士族出身の民権家は、新しい時代への知識を持ち演説も上手でしたが、農民大衆とのつながりはありませんでした。一方の豪農出身の民権家は、新しい時代への知識は不足していましたが、農民大衆とのつながりは持っていました。そのため、豪農層が多くの農民たちを集めた場で士族層が演説を行なう演説会は、多くの農民たちが新しい時代への知識を手に入れることが出来る、非常に知的で刺激的な場となって大流行したのでした。

 

【『公撰民会日誌』の一部 「濱松 玄忠寺 集会」の文字が 丸尾家文書・御前崎市教育委員会所蔵 (撮影:筆者)】

 

そして、浜松では己卯社(きぼうしゃ)という演説結社が結成されて、丸尾はその有力なメンバーとなります。この己卯社は、浜松県民会-遠江国民会のように、県政へ具体的な意見を提案するという性格を持っていたと言われています。また、丸尾の地元の池新田村では養志社(ようししゃ)が結成されて、丸尾が社長となります。養志社では、国会開設などをテーマとして池新田村で演説会を開いていきました。そしてその年に、国会開設を求める県下全域1万9089人の総代の1人として丸尾は、元老院に国会開設を求める建白書を提出したのでした。

また新たに開かれた静岡県会の議員となった丸尾は、遠州出身の県会議員が会合を開くことを提唱し、遠州地域での地租を軽減することを求める請願運動を始めます。そしてついには県令を巻きこんで、大蔵省大臣松方正義との面会を実現。交渉の結果、地租の軽減=減税が実現されたのでした(『自由民権運動の壮士たち 第11回』参照)。

 

【 岡田良一郎の肖像画 掛川市HPより 】

 

その後国会が開設されて、第1回衆議院議員選挙が行われることとなりました。この時、静岡県内は7区の選挙区に分かれ、第7区(伊豆地方)以外は、当選者数1名の小選挙区制。また立候補制ではなかったため、選挙区内の被選挙権のある者すべてが候補者となりました。当選への意思がある者は、演説会や懇親会を開いたり、推薦する者たちが連名で新聞に広告記事を掲載するといった選挙活動を繰り広げます。静岡4区では、丸尾と岡田良一郎がその意志ある者として、激しい選挙戦を戦うこととなりました。

その際に丸尾を応援する「静岡県茶業家有志一同」は、以下のような檄文を新聞に掲載しました。それは、『①製茶は利益が200万円以上に上る静岡県の一大特産である。②ところがその輸出関税は30万円という多額になっている。③この多額に上る税を全廃することが製茶業者の目的となっている。④そこで有力茶業家の丸尾文六君を国会議員として送り出したい。⑤そのために第4選挙区の選挙民は彼を当選させるための努力を大いにしてもらいたい。』という内容でした。このように、製茶輸出への関税を撤廃することが、丸尾を応援する第一の理由として、堂々と主張されていたのです。

選挙戦の結果は、岡田が1388票で当選。丸尾は1185票で次点という結果となりました。しかし岡田は、「吏党(りとう)」と呼ばれた政府側の政党である大成会に所属したため批判を浴び、第2~4回の総選挙では丸尾が当選。丸尾は立憲改進党に所属する議員として、衆議院で生まれていた地価修正法の実現を求める大きなうねりに参加していったものと思われます(『自由民権の壮士たち 第1回』参照)。

 

【 開墾された土地(丸尾原)にある丸尾原水神宮 (撮影:筆者)】

 

丸尾が川越人足たちと開墾した土地は、現在「丸尾原」と呼ばれ、その頃と同様の茶畑となっています。そしてその茶畑の中には、丸尾原水神宮という神社があり、境内には仲田源三と丸尾の顕彰碑が立ち、社務所の中には丸尾の顔写真が祀られています。荒野を自力で開墾して茶畑を作り、そこから摘んだお茶を自分たちの工場で製茶して、自力で改修、整備した道と橋と港から、その製茶を自分たちの汽船でアメリカに輸出していき、後には直接輸出も実現していった丸尾たち。青空の下に広がる茶畑を眺めながら、その力強い自立した精神を、強く感じさせられた次第です。

 

【 現在の丸尾原に広がる茶畑 バス停の名前は丸尾原神社(撮影:筆者)】

 

 

 

参考文献:高木敬雄『静岡県近代史研究第13号 「川越人足開墾と丸尾文六」』(静岡県近代史研究会) 原口清『明治前期地方政治史研究』上・下(塙書房) 上野利三『日本初期選挙史の研究―静岡・三重編』(和泉書院) 原崎郁夫『原崎源作 私の茶業生活』  大石貞夫『牧之原開拓史考』(静岡県茶業会議所) 『浜岡町史』通史編 『浜岡町史』『菊川町史』近現代通史編 『掛川市史』『静岡県史』通史編近現代一 河原崎次郎編『郷土茶業史覚書』(相良町教育委員会) 『菊川茶業誌』(菊川町茶業誌編纂委員会) 『静岡県自由民権史料集』(三一書房)