自由民権運動の壮士たち 第11回 「平民的自由主義者」と呼ばれた男 足立孫六(静岡県)
【 足立孫六の肖像画 足立順司氏所蔵 (撮影:筆者) 】
どんな組織もスタート時にはゴタゴタするものですが、明治維新によって新しく作られた明治新政府も同様でした。明治政府が成立した数年後には、「明治6年の政変」と呼ばれる内部分裂が起きて、西郷隆盛(さいごうたかもり:薩摩藩出身)や木戸孝允(きどたかよし:長州藩出身)、板垣退助(いたがきたいすけ:土佐藩出身)、江藤新平(えとうしんぺい:佐賀藩出身)といった指導者たちが政府を離れます。その翌年に板垣たちは民選議院設立建白書を提出し、高知に立志社という民権結社を設立します。そして、そうした民権結社が全国各地に結成されていって自由民権運動が始まります。一方、郷里の佐賀に戻った江藤新平は、武士としての地位を失った不平士族を率いて「佐賀の乱」と呼ばれる反乱事件を起こしますが、大久保利通(おおくぼとしみち:薩摩藩出身)率いる政府軍によって鎮圧されます。
こうした騒然とした状況の中で、大久保は木戸や板垣と会談して2人を政府に復帰させて、政権の安定を図ります。そしてその際に、3人で合意した改革案に基づく「立憲政体樹立の詔(みことのり:天皇の意思を伝える文書)」を発表。段階的に立憲政治体制にしていくというこの詔をもって、立憲政治を実現していく方針が明らかにされ、大審院(現在の最高裁判所)の設置や、地方官会議を開催することも宣言されました。
【 大久保利通 国立国会図書館近代日本人の肖像より 】
この地方官会議というのは、全国の県令・権令(現在の県知事)と府知事が集まる会議で、地方の庶民の意見を吸い上げた上で、地方行政について議論するという会議でした。この場では、公の選挙によって民から選ばれた議会を地方に設けるという、公選民会も議論の対象となりました。しかし、39対21で公選民会は否決され、その代わりに行政が選んだ区長、戸長による会が設けられることとなりました。この時に、『郵便報知新聞』に「民会論」を投稿して「委任状を持たない代言人(当時の弁護士)はいない。議会を構成する代議人に対する委任状は投票である。投票で選ばれていない区長や戸長には、人民の代議人たる責は負えない。警察や道路などに民費を使うのならば、まず真っ先に人民の代議人に謀らなければならない」と主張して、地方官会議の決定を厳しく批判し、公選民会の設立を要求したのが、浜松県第二大区十七小区(当時は県の下に大区・小区という行政区分が置かれていました)の区長を務めた経験のある、まだ30代前半の足立孫六(あだちまごろく)という人物でした。
【 足立の手帳に書かれていた、「民会論」の下書きと思われる部分 足立順司氏所蔵 (撮影:筆者) 】
足立は、江戸時代後半に遠江国城東(きとう)郡丹野(たんの)村(現在の静岡県菊川市)の三橋家の次男として生まれ、その後20才の時に周智(しゅうち)郡平宇(ひらう)村(現在の静岡県袋井市)の足立家の養子となりました。豪農である足立家の当主となった足立は、浜松県第二大区十七小区(平宇村など20村)の区長となりましたが、租税の軽減を訴えて官員と対立したために罷免されたといいます。
一方明治政府は、廃藩置県を行なったことによって、地域によって税率が異なるといった租税制度の不統一が明らかとなったため、地租改正という税制の大改革を断行することとなりました。それは、①課税の対象をそれまでの収穫量から、収穫量に基づいて算定された地価とする。②税である地租の額は地価の3%とされ、それまでの現物納から金納とする。③地租の納入者は、それまでの耕作者から土地の所有者とする、というもの。政府は新たに地租改正事務局を設置し、大久保利通がその総裁に就任するという強力な体制をつくってこの大改革に臨みました。
【 地租改正の様子 沼津市明治史料館展示より (撮影筆者)】
地価の3%が地租額となるため、地価は極めて重要な数字となりました。その地価は収穫量と米価と利子率の組み合わせで決まるので、収穫量の決定をめぐって官民のせめぎ合いが起こることとなりました。元々は、村々の農民が実際の収穫量を調査して算定した収穫量を、官の側が検査して決定されることとなっていました。ところが、そうした作業を進めていく内に、全体として歳入が減ってしまうことが明らかとなったため、政府は方針を変更。政府が広い範囲で独自に算定した収穫量の見込みに近づけるように、政府と県の担当官から収穫量の引き上げ説得が何度も繰り返されて、農民たちの間に反感が広がりました。
そうした経過を経て浜松県の平均収穫量が決定されたのですが、それは政府の見込みを下回るものでした。そこで政府と県の担当官が相談した結果、平均収穫量を政府の予定した量にまで増加させる代わりに、米の平均価格を引き下げる。地租の総額自体は変わらないのだから、農民にも不満は無いだろうという案が出されました。収穫量と米価を交換させることによって、政府が予定していた収穫量のノルマを達成しようとしたこの案は、「交換米」と呼ばれ、浜松県の多くの農民たちから大反発を買うこととなりました。
それは、農民の協力によって調査は行われたのに、その結果を一方的にホゴとした上に「交換米」を押し付けてきたこと。5年後に行う予定である地価改定の際に、相場にそって米価が高めに修正され、収穫量が修正されなかった場合は増税となることなどが、予想されたからでした。「地域の困難は極点に達している。人々が集まって、まさに茨城や三重の二の舞(この年に起こる茨城県真壁(まかべ)郡と那珂(なか)郡での一揆と三重県での東海大一揆)になろうとする」雰囲気だったと後に足立が評したように、浜松県内では一揆が起きてもおかしくない状況となったのでした。
【 岡田良一郎の肖像画 掛川市HPより 】
この事態に恐れを抱いた浜松県の県令は、地域の豪農である岡田良一郎(おかだりょういちろう:掛川信用金庫創設者で後に衆議院議員を務める)と青山宙平(あおやまちゅうへい:後に磐田・豊田・山名郡長を務める)に相談。岡田と青山は、①今後4年間農民側が見様し(みためし)と呼ばれる米の量を測る試験(以下、見様し方法)を行なう。②その試験の方法などを議論するために公選民会を開く。③5年後の地価改定の際は、試験の結果に基づく正確な地価を決定する。④以上3つを官の側が承認することを条件に交換米を受け入れる、という案をまとめます。そして、地域ごとに農民たちを集めて議論を行なった結果、3つの条件を前提として交換米を認めるという、岡田と青山の提案通りの結論に至ったのでした。
【 足立の手帳に書かれていた、民会規約の下書きと思われる部分 足立順司氏所蔵 (撮影:筆者) 】
一方、この交換米問題が発生する直前に浜松県庁に出仕するようになった足立は、公選民会の必要性を何度も県令に提案していました。その結果足立は、県庁内に設置された民会係の担当に任命されて、小区の区長たちを集めて議論を行なうなどして、公選民会開設の準備作業を進めます。こうして浜松県では、民会を組織する代議人の選挙規則が作成され、その内容は以下のようなものでした。①16才以上の戸主(男女や財産額は問わない)が最初の投票を行なう。②戸主か否かを問わない21才以上の者の中から、選ばれた者によってまた選挙が行われて、小区会の正副議長を選ぶ。④小区会で選ばれたその2人が、大区会の議員となる。⑤大区会で選ばれた議長が県会議員になる、というものでした。
戸主である限り女性でも投票権があったこと(※女性として参政権があったというわけではありません)、財産による制限がなかった点などからしても、極めて進歩的な内容であり、その実現には足立が大きな役割を果たしたのだと考えられています。
【女性の名前が書かれた投票用紙 榛原郡五和文書・静岡県立中央図書館所蔵 (撮影:筆者)】
ところが突然浜松県は廃県となり、静岡県に合併されることとなりました。これに驚いた岡田と青山は静岡県令と交渉。その結果、浜松県民会は遠江国州会と名前を変えて継続されていくこととなりました(以下、旧浜松県を遠州、遠江国州会を遠州民会とします)。浜松普済寺で再開された遠州民会では、まず「見様し方法」についての案が審議、決定されました。この方法は、地質や水の条件などについても考慮し、地域も細かく分類するなどして、それまでの調査に比べて適正な方法となっていました。それは、地租改正に関する政府の諸法令を前提にして工夫して作られた方法で、遠州民会が合法的な枠の中で農民側の利益を何とか追求しようとしたものであったと言われています。
【 現在の普済寺 (撮影:筆者)】
ところが政府の地租改正事務局は、この見様し方法を行なうことを不認可としました。これに対して遠州民会では、見様し方法を行なうことを条件に交換米を認めたのだから、見様し方法を不認可とする以上、交換米も当然取り消しとすべきとします。同時に、これまで妥協案をまとめてきた岡田、青山の責任も追及されました。その結果、岡田、青山ら3名は、静岡県庁および地租改正事務局への「交換米取消し」の請願を行なう役目を背負うこととなります。
この重い任務を負って大井川を渡る時に岡田は、秦の始皇帝暗殺という任務を負った荊軻(けいか)が易水という河を渡るにあたって「風が粛粛と吹いて易水は寒い。壮士は一度旅立てば二度とは帰ってこない」と歌ったという中国の逸話にちなんで、「大井川を渡る時に、風が粛粛と吹いて易水の寒さを覚えた」という記録を残しています。
【 東京へ米を運ぶ計画について民会に出された資料 榛原郡五和文書・静岡県立中央図書館所蔵 (撮影:筆者)】
こうした悲壮な思いを抱いて上京しなければならなかった岡田たち。実はこの年は米価が著しく下落していたため(一石で3円程度 一石=1000合)、多くの農民は経済的苦境に陥り、それが、農民たちが交換米の廃止を強く求める背景となっていました。そのため全国的には、茨城県の真壁郡や那珂郡での一揆や、三重県での東海大一揆が起こされることとなっていたのです。この間に足立は、廃県となった浜松県の役職を罷免されたため帰郷し、第11大区の区長に静岡県から任命され、遠州民会の指導層の一人となっていました。
米価が一石3円程度に下がっている中で、5円5銭という平均米価に基づく地租を納めるのは、多くの農民たちにとって非常に困難なことであり、地租を納めることが出来ない状況が生まれて来ました。そこで、足立ら遠州民会の地元の指導者たちが、東京にいる岡田、青山らと連絡を取り合って協議した結果、①地租にあたる米を地域ごとに集めて共同で管理する。②その一部は物納の形で地租として納めるか、地価の基準価格か時価で政府に買い上げてもらう。③残りは東京へ運んで高く売って地租の金納に充てる、という対応策をまとめます。
【 渋沢栄一 『国立国会図書館近代日本人の肖像』より】
そして青山は、明治初期に静岡藩の奉行として青山の地元に学校を設立するなどした後、この頃は政府に務めていた前島密(まえじまひそか:『自由民権の壮士たち』第4回参照)と接触。静岡藩士として商法会所(銀行と商社の業務を行う組織)を開くなどした渋沢栄一(しぶさわえいいち:「日本資本主義の父」とも称される実業家)とも交渉して、東京に運ぶ米を渋沢商店に買い取ってもらうように話をまとめます。
一方足立は、浜松の自由民権家である竹村太郎(たけむらたろう:民権結社己卯(きぼう)社結成の中心となる)とともに遠州民会から出願総代人に選ばれて、哀願書を県庁に提出して交渉を始め、一部の米の買い上げや、東京へ米を運ぶことの認可を勝ち取ります。こうして遠州民会による創意工夫によって実現されたこの方式は翌年も実行されて、貢租の負担に苦しむ農民たちのために大きく役立つこととなりました。また貢租の負担軽減を望む全国からの運動の力とあいまって、政府はその後、地租の半分は米の代納も許可するように、方針の一部変更を決めたのでした。
【 哀願書に関する民会への報告書 榛原郡五和文書・静岡県立中央図書館所蔵 (撮影:筆者) 】
さて、その後も岡田らは交換米の取消しを求めて交渉を続けましたが、西南戦争の終わりが見えて来て余裕を取り戻した政府は、①遠州の農民たちが滞納している租税額と同額の金を貸し与える。②今から3年待てば第二期地租改正となり、その時には交換米問題も解決できる。③条件を飲まずに要求を続けるのならば弾圧する、というアメとムチの両面を持った提案を示してきました。岡田たちは条件を飲むこととし、こうした妥協が成立することによって、交換米取り消しを求める運動はいったん終息します。
その後、今後行われる第二期地租改正の対応について、遠州民会では2つの案が出されました。一つは岡田、もう一つは足立の案でした。実は政府が示していた地価の算出方法には、二つの方法がありました。一つは土地の収穫量に基づく調査方法であり、これが第一期地租改正の算出方法となり、岡田の案もこれに基づくものでした。もう一つは小作米を対象とした方法で、足立の案はこの方法を採用したもので、地主と小作人の会議で両者が対等の立場で討議して小作料を決定するといった、小作人の立場を考えた案でした。
足立は「小作人たちに本来の権利を与えて独立の民としなければ、我が国の開明富強は出来ない」としてこの案を主張したのでした。ちなみに小作人が地主に払う小作料は物納とされたので、米価が高くなれば地主は利益を増やし、米価が下がれば小作料を引き上げるという形で地主に利益が集中。このため土地が地主に集中して、自らは耕作しないで小作料で利益をあげていく寄生地主制が発展した一因となったとも言われています。
【 東海大一揆の浮世絵 Wikipediaより 】
この頃、茨城県の真壁郡や那珂郡での一揆や東海大一揆(『自由民権の壮士たち』第1回参照)のような農民の猛反発を受けて、税に関する協議機関を地方に設ける必要性があると考えた大久保利通は、地方制度の改革を行ないます。そして、全国に府県会が置かれることとなって、遠州民会は廃止。また、大区小区制も廃止されて、市及び区と、郡の下に町村が置かれる制度への変更がなされました。そして、足立は周智郡郡長に、岡田は佐野・城東(きとう)郡郡長に就任します。
一方政府は、第二次地租改正を5年間延期するとともに、希望する町村には特別地価修正の申請を許可することとしました。遠州の農民たちの間では、交換米に反対し、地価修正を望む声が圧倒的だったようですが、西南戦争が終結した後に米価が上昇していたため、この時点で地価の修正を行なうべきか否かについては意見が分かれました。
【 郡長足立宛に出された書類 足立順司氏所蔵 (撮影:筆者)】
そうした中で県は、遠州の各郡長を集めて意見を求めます。足立は、不完全な修正はせずに地価は5年間そのまま据え置きとして、5年後に地価算定の方法を、小作米を基準とした方法に大きく変更することを主張します。その結果、いったんは地価の据え置き論が決定されます。しかし、交換米問題の責任を追及されてきた岡田は、平均収穫量を減らす代わりに平均米価を引き上げるという、いわば「逆交換米」とも言える方法を県や各郡長に提案。足立は反対しますが、大勢は賛成となった結果、①平均収穫量を減らす代わりに平均米価を5円43銭に上げる。これに従う村は、政府が以前貸し与えた金の返還期間を20年から50年とする。②あくまでも地価の特別修正を要求する。③地価は旧来のまま据え置きとする、という3つの方法の1つを各村が選ぶこととなり、遠州の多くの村は①を選びました。こうして約6年間に渡った交換米取消し運動は終わりを告げることとなったのでした。
【 地価特別修正の請願書 榛原郡五和文書・静岡県立中央図書館所蔵 (撮影:筆者)】
一方、遠州の約70村は②を選んで、あくまでも地価の特別修正を要求。足立が郡長を務める周智郡でも11の村が要求します。足立は、郡長という県の考えを伝える立場に立ちながらも、農民たちと県の間に入って交渉し、最終的には平均米価の5円5銭への据え置き(実質的な減税)などの条件をまとめ、紛争の解決を図ったのでした。
そもそも足立は、遠州地域は「他の地域に比べて平均米価が高すぎるから、地価が非常に高くなっている」と認識していたのですが、それゆえに遠州での地価の修正を求める運動はその後も粘り強く続けられました。ところが政府は、地租改正条例を廃止して地租条例を制定。この法令で地価の修正は、地目(土地の用途や使用目的)の変更か開墾の場合に限り行われるとされ、約束されていた地価の修正は行われないこととなってしまいました。
【 丸尾文六 Wikipediaより 】
これに対して当時静岡県会議長だった、城東郡池新田(いけしんでん)村(現在の静岡県御前崎市)出身の自由民権家である丸尾文六(まるおぶんろく)の提唱で、遠州出身の県会議員が会合を開き、平均米価の改正を求める請願運動を始める決議をあげます。この運動の目的は、地価における平均米価を5円43銭から5円5銭に改正することとされて、まずは静岡県令関口隆吉(せきぐちたかよし:第2代山口県令、第3代静岡県令、初代静岡県知事などを務める)に平均米価の改正を求める上申書を提出。関口が上京する機会に丸尾らも上京して、大蔵省大臣松方正義(まつかたまさよし:西南戦争の戦費調達のために生じたインフレを抑えるため、松方デフレと呼ばれる極端なデフレ政策を行なったことで有名)と面会し、これまでの事情を説明して平均米価の改正を求めました。松方は、米価を5円15銭と引き下げる案を閣議に提出、これが閣議決定されたことによって、米価の改正による地価の引き下げと減税が実現されたのでした。
【 菊川駅前に立つ県令関口の銅像 (撮影:筆者) 】
さて、周智郡の初代郡長となった足立は、郡役所の庁舎を新設。開庁の祝辞で「(この地を)自由の楽土たらしめん」と述べる意気込みを持って、10年間郡長を務めました。そして、有志から集めたお金などで道路や橋の建設を進め、「道路郡長」とも呼ばれました。また、お茶や繭、ジャガイモなどの生産を地域に根付かせようともしました。これは、後に内務大臣松方正義に対して足立が出した「勧業の義につき」という意見書の中で、「国家文明を進め、兵を強く、財を豊かにするためには、民業を勧め物産を盛んにするべきであり、そのためには、国内の運輸を発達させて、外国への商路を開いて輸出を勧めていくべき」と述べた考えに基づくものでした。
【 郡庁内に飾られた足立の肖像画の写真 森町歴史民俗資料館展示より (撮影:筆者)】
それから、いわゆる松方デフレによって米価や繭価が急落したことによって、多くの農民たちが経済的な苦境に陥ったため、足立は貢租の納期の変更を県令に求めるともに、「民間の救済の儀につき」という意見書を提出。平均米価の改正や地租率の引き下げ(2.5%を2%に)、小作人に権利を与え、小作米を基準に地価を算出することなどを提案しました。こうした農民大衆や小作人の立場に立っての主張を展開する足立に対しては、「平民的自由主義者」という評価がなされました。
【 現存する周智郡郡役所庁舎・現在の森町歴史民俗資料館(撮影:筆者) 】
そうした足立が、地域のために取り組んだ一大事業が、社山(やしろやま)用水の建設事業でした。現在、磐南(ばんなん)平野と呼ばれる平野が広がる袋井市と磐田市は県内でも有数の穀倉地帯となっています、江戸時代には水不足で苦しみ、水争いが絶えない地域でした。江戸時代の後半、幕府の直轄地だったこの土地に、犬塚祐一郎(いぬづかゆういちろう)という河川管理の役人が赴任します。犬塚は、天竜川の堤防づくりなどで成功を収め、彼の貢献を讃える石碑が現在も残されています。その犬塚が磐南平野の地形を調べ上げた結果、平野の最北部にある社山にトンネルを掘って、天竜川から水を引いてくる計画を構想します。この計画は江戸時代には実現されませんでしたが、地域の中では何度も浮かんでは消える悲願となっていきました。
【 犬塚祐一郎の顕彰碑 〈右奥〉 ( 撮影:筆者) 】
明治となって交換米取消し運動が終わった頃、足立たちは地元の70余りの村の意見を取りまとめて、政府(内務省と農商務省)に嘆願書を提出します。費用は村々の参加でつくられる用水組合で負担。その半額程度を政府からの借金でまかなうという計画でした。政府からの認可を受けてトンネル工事が着工されましたが、予想以上に地質が軟弱だったため工事は遅れ、予算もふくれ上がってしまいました。
関口県令は、静岡監獄所の囚人を現地に送って工事に参加させるなど様々な援助を行ない、その結果工事は無事完成に向かっていきました。ところが、内務省の設計ミスによってトンネルの出口が高くなりすぎているため、水が流れて来ないことが、完成直前となって明らかとなりました。工事のための費用や人手を出していた農民たちからは、組合に対して非難が殺到。組合を脱退する村も続出。こうした中で工事は中止に追い込まれたのでした。そして地域では、「社山 山のキツネにだまされて カネは出したが水はコンコン」という戯れ歌が流行り、足立も責任を問われて郡長を罷免されたと言われています。
【 現在の社山隧道(ずいどう:トンネル)の吐水口 (撮影:筆者)】
しかし、この失敗によって足立が地域の農民たちの信頼を失ったということはなく、第2回、第3回の帝国議会選挙では連続して衆議院議員に選ばれて、自由党に所属して活動します。その頃地価の修正を求める運動は、遠州だけでなく、三重県や福井県(『自由民権運動の壮士たち第7回参照』)などでも行われて全国的な運動に広がり始めていました。そうした運動を背景にして、足立たちは衆議院で地価修正法の実現(『自由民権の壮士たち』第1回参照)を追求して、地価修正を求める全国的な大きなうねりを生み出していったのでした。
【 社山をバックに流れ出る用水 (撮影:筆者)】
また、中止された社山用水のトンネル工事は、昭和初期になって再開、完成されました。現在は、国営天竜川水利事業の一部として、天竜川にある船明(ふなぎら)ダムから取り入れられた水が導かれ、社山トンネルを通って磐南平野に流れ出ています。社山トンネルの出口周辺の田んぼの中からは、社山をバックにコンコンと流れ出てくる水を見ることができます。その流れのほとばしるような勢いはまるで、足立たち明治の人たちの、減税と新しい社会の創出を求める強い意志とエネルギーであるかのように、感じさせられた次第です。
【 足立家の近くにある古刹可睡斎の境内に立つ 足立の辞世の句『夏に入るや さくら林の一嵐』の碑(撮影:筆者)】
自由民権現代研究会代表 中村英一
参考文献:原口清『明治前期地方政治史研究』上・下(塙書房) 『近代静岡の先駆者』内 高木敬雄『足立孫六』(静岡新聞 社) 『森町史』通史編下巻・資料編四近現代 『菊川町史』近現代通史編 『袋井市史』通史編下巻 『静岡県の歴史』近代現代編(静岡新聞社) 『静岡県史』通史編近現代一・資料編近現代一、二 『静岡県自由民権史料集』(三一書房)『静岡県周智郡誌』(名著出版) 足立順司『平宇の足立家の歴史』 一般社団法人農業農村整備情報総合センターHP『国土を創造した人々 磐南平野の金字塔』