自由民権運動の壮士たち 第10回 江原素六(静岡県・東京都) 東大合格者100名の名門麻布高校を創立した男


 

東京にある麻布高校と言えば、毎年100名近くの東大合格者を出す全国でも屈指の名門校ですが、この麻布高校の創設者であり、亡くなるまでその校長を務めたのが江原素六(えばら そろく)という人でした。

 

( 写真① 国立国会図書館「近代日本人の肖像」より )

 

江原は、幕末に幕臣の子として江戸で生まれました。江原家は江戸城内の掃除や雑用をこなす最下層の家だったため生活は苦しく、つま楊枝作りの内職をして生計を立てていたようです。しかし、本人の努力や周りの協力もあって、江戸幕府の軍事教育機関である講武所(こうぶしょ)で西洋砲術を指導するまでになりました。明治維新の後、静岡の地に移った徳川家と共に沼津に移住。新たに設置された静岡藩の幹部として、藩の陸軍士官学校である沼津兵学校の設立作業に参加します。

 

新設された沼津兵学校では、フランス式軍隊を目指す近代的な教育が行われました。その内容は、軍事以外では英語やフランス語、数学、物理、化学、天文、世界史、世界地理、経済学など時代の先端を行くモノ。幕府の遺産である蔵書や設備というハード面でも、教育内容のソフト面でも、当時の最先端の教育機関であった沼津兵学校。その運営を任された江原は、金融や海運ビジネスを行なって得た資金で学校の運営を図ります。

 

(写真➁ 幕臣時代の江原〈一番右側〉 沼津市明治史料館展示より 撮影:筆者)

 

ちょうどその頃明治政府によって、全国各地の有力な藩から欧米に視察団が送られる事となり、静岡藩から選ばれた江原もその一員として渡米します。江原はアメリカで、牧畜業などの産業と教育を中心に視察をします。また、この視察団に高知藩から派遣されていた片岡健吉【かたおか けんきち:後に板垣退助らと共に自由民権運動を始め、衆議院議長も務める】と交友を結ぶようになりました。この片岡との関係が、後に江原が自由民権運動に参加していく理由の一つにもなったようです。

一方、江原が渡米している間に廃藩置県が行なわれて、静岡藩は消滅。沼津兵学校も政府の機関となって東京に移転し、兵学校の仲間たちも明治政府の下で働くために東京に戻って行きました。帰国後江原は沼津に留まる事を決め、職を失った元幕臣の仲間たちのために様々な事業にチャレンジする事となります。

 

(写真③ 沼津兵学校址の碑 撮影:筆者)

 

まずは、沼津の地にある愛鷹山(あしたかやま)のすそ野の土地を使用する許可を、静岡県から手に入れ、その土地を使って桑やお茶の栽培を行います。そして、土を改良する肥料を手に入れるために、牛や羊の牧畜業も始めます。牧牛社や混合農社といった結社を結成して、牧畜で得た肥料で桑や茶を栽培していくという、いわゆる混合農業の事業にチャレンジしたのです。そして、東京での博覧会に出品した牛が優秀賞を取るところまで、牧畜業を発展させます。しかし、「牧畜業は肉食の悪習慣を奨励し、国体に背くものなので中止を命ずる」という政府の妨害に合うなどして、牧畜業は5年ほどでほとんど失敗に終わってしまいました。

 

(写真④ 江原牧場跡の石碑 撮影:筆者 )

(写真⑤ 羊牧場跡の石碑 撮影:筆者 )

 

その一方で、お茶の栽培事業は順調に成長していきました。幕末に日本が開国して以来、お茶は日本からの輸出品の中心となりました。日本のお茶は、紅茶の代用品としてアメリカで大人気になっていたのです。しかし、生産したお茶を輸出する事業は、外国人商人によって独占されていました。そのため、外国人商人に多くのマージンを取られてしまうという問題があり、こうした状態を打ち破るために、日本人が直接アメリカに輸出するという事業に江原たちはチャレンジします。

積信社という会社を設立した江原は社長に就任。地元の農家から買い集めたお茶を、三井物産を通じてアメリカに直接輸出していきました。こうした積信社の事業は順調に推移し、来日したグラント・アメリカ大統領の訪問を受けるほどだったと言います。しかし、粗製品が輸出された事などによって、アメリカでのお茶の売り上げは一時減少、積信社の事業も赤字転落して、最終的には解散に追い込まれてしまいまいました。

 

(写真⑥ 積信社が輸出する茶箱に張られたラベル 沼津市明治史料館展示より 撮影:筆者)

 

さて、こうした牧畜やお茶の栽培が行われた愛鷹山のすそ野は、江戸時代は入会地(いりあいち)として地元の農民たちによって共同で利用されていた土地でした。しかし、明治の初めに国有化されてしまい、困った地元の農民たちは、江原に明治政府との交渉を依頼。江原は、再び民有に引き戻す運動を粘り強く展開していきます。そして20数年かけて、地元への払い下げを実現。以後、地元農民たちによる植林や開墾、お茶の栽培などが取り組まれていく事となりました。そして現在でも愛鷹山周辺では、江原たち先人のチャレンジとその精神が受け継がれ、「あしたか牛」というブランドの和牛の飼育や、お茶の栽培が盛んに行われているのです。

 

(写真⑦ 現在も沼津のお茶のブランド名には素六の名前が 撮影:筆者)

 

さて、教育への関心も強かった江原は、沼津兵学校の流れを受け継ぐ学校として沼津中学校を設立し、校長を務めます。外国人による英語教育を実現するために、カナダ・メソジスト教会の宣教師を沼津の地に江原は招きます。そして、彼の影響を受けた江原や教員たちはキリスト教に入信します。また、この頃盛り上がり始めた自由民権運動に生徒たちが参加する事を江原は黙認。生徒たちは観瀾社(かんらんしゃ)という演説結社を作り、民権家の演説会に参加したり、演説の練習を行なったりしたと言われています。こうして、江原の自由主義的な考えの下、沼津中学校はキリスト教や自由民権運動と出会う事の出来る自由な気風の場となっていったのです。

 

( 写真⑧ 沼津市にある江原公園に愛鷹山をバックに立つ江原の銅像 撮影:筆者 )

江原自身も、自由民権運動のリーダーである板垣退助【いたがき たいすけ:自由党を結成して党首として運動をけん引。後に内務大臣を務める】との出会いを通して、自由民権運動に参加して行きます。自由党が結成された5か月後に、沼津の名刹である乗運寺で行われた板垣の演説会で祝文を朗読した江原は、その後板垣と共に東海道の各地で遊説活動を続けて行きます。そして、板垣が岐阜で暴漢に襲われた岐阜事件が起こるまで、板垣と行動を共にしたのでした。

 

(写真⑨ 愛鷹山の入会地の返還を記念する碑 撮影:筆者)

 

しかし、お茶のアメリカへの輸出事業の経営悪化などをめぐって疲労を深めていた江原は体調を崩し、沼津中学校の校長も辞めて病に臥せるようになってしまいました。そうした中で江原を支えたのはキリスト教への信仰でした。以後自由民権運動が沈滞していく数年間、江原はキリスト教の伝道活動と愛鷹山(あしたかやま)のすそ野の土地の民有引き戻し運動に専念していきます。

そして、国会開設を間近に迎える時期になると、いったん沈滞していた自由民権運動は、大同団結運動【自由民権運動のバラバラになっていた各グループが一つになって、初めての衆議院選挙に臨もうした運動】として復活しました。体調を回復させた江原も、この運動のリーダーであった後藤象二郎【ごとうしょうじろう:大同団結運動を提唱し、後に商務大臣などを務める】を沼津に招いて大会を開くなど、再び運動に参加します。

 

そして迎えた第1回の衆議院選挙。ところが、清貧な生活を送ってきた江原に対して、直接国税15円以上を納めるという、選挙に出るための条件が壁となって立ちはだかりました。そこで、江原を支持する地元の農民たちは、自分たちの土地を江原に提供して、選挙に出るための条件をクリアさせます。このような地元の農民たちの熱い支持に支えられた江原は、衆議院議員に見事に当選します。

 

(写真⑩ 当時の麻布中学内にあった江原講堂 沼津市明治史料館展示より 撮影:筆者 )

 

衆議院議員となって上京した江原は、カナダ・メソジスト教会のミッション・スクールである東洋英和学校の経営再建を期待されて校長となります。当時、こうしたミッション・スクールはキリスト教を教える各種学校とされて、上級学校への進学が認められていませんでした。そのため生徒数の確保が難しく、経営難におちいっていたのです。そこで江原は、学校の敷地の中に普通教育を行う中学部を創り、それを基に麻布中学校を創立します。そして、第一高等学校(現在の東大教養学部)の校長に働きかけて生徒の受験資格を手に入れるなどして、進学者の数を増やし、学校の地位向上と経営再建に努めました。

 

(写真⑪ 現在の麻布高校・中学の様子 麻布学園提供

 

ところが数年後に明治政府は、中学校での宗教教育を禁止する通達を出します。そして、この通達に従わなければ、上級学校への進学や徴兵が猶予されるといった特典が受けられなくなるという事態に、ミッション・スクールは追い込まれます。江原は、同志社・青山・立教・明治学院といった学校と共に、通達を撤廃する運動に取り組みますが上手くいかず、カナダ・メソジスト教会は東洋英和学校の廃校を決定。これに対して江原は、教会との関係を断って、麻布中学を独立させる事を決心し、現在の麻布高校・中学がある場所に校舎を移転させたのでした。

 

この頃の江原は東京に家を構えず、学校の寮で生徒と共に寝起きして一緒に近所の銭湯に通うという、まさに生徒たちと裸の付き合いをしていたと言われています。そして、江原は亡くなるまでの27年間、この麻布中学の校長を務めました。江原の自由主義的な精神は、校則がほとんど無いという現在の麻布高校・中学の、自主・自立の校風にしっかりと受け継がれているようです。ちなみに、今回取材のため麻布高校・中学を初めて訪れた、田舎の公立高校出身の筆者も、そのあまりにも自由な雰囲気に驚きを感じさせられました。

 

(写真⑫ 現在の麻布高校・中学内にある江原の銅像 麻布学園提供 )

 

また国会議員としての江原は、自由党、憲政党、立憲政友会といった政党に所属。初期は軍事問題、途中からは教育問題を専門にして議員活動を続けて行きました。その間、「大学などの高等教育における思想の自由」「学校における信教の自由」など自由主義的な党の教育方針をまとめて発表します。また、いわゆる大正デモクラシーの時期には、憲政擁護を求める静岡での県民大会に参加するといった活動も行ないました。

 

そして、アメリカで日系移民に対する排斥運動が起こった時には、江原は4か月間に渡って渡米。全米各地で演説や交渉を行なって、日米の相互理解を図るよう努力しました。江原が渡米する際に見送りのために多くの国民が集まっている写真からは、彼が大衆的な人気があった事がうかがえます。

 

(写真⑬ 訪米する江原を見送るために集まった民衆 沼津市明治史料館展示より 撮影:筆者)

 

このように江原は、キリスト教の信仰に基づく教育活動と、自由民権運動の体験に基づく政治活動を、沼津と東京を拠点にして、半生をかけて行なったのでした。そして江原は、沼津の農村に構えた家を本宅として、正月は必ずこの家で迎えたと言われています。その江原の家の跡地には現在、沼津市明治史料館が置かれています。その記念館を訪れて、館内に保存されている旧宅の中をのぞいてみると、そこには江原が渡米した際に日系移民から贈られたという、初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンの肖像画が掲げられていました。質素な家の中に掲げられたその肖像画から、江原が一生胸に抱いていたチャレンジと自由を求める精神を、強く感じさせられた次第です。

 

写真⑭ 江原の旧宅内に飾られている初代アメリカ大統領ワシントンの肖像画 沼津市明治史料館展示より 撮影:筆者)

自由民権現代研究会代表 中村英一