自由民権運動の壮士たち 第9回 窪田次郎(広島県)


 

窪田次郎の肖像画  窪田文家文書・提供広島県立博物館

 

自由民権運動の活動家は、豪農や元武士が多かったのですが、窪田次郎は自ら「田舎医師」と称する医師でした。窪田は、江戸時代後半の大塩平八郎の乱が起こる2年前に、現在の広島県福山市加茂町にあった粟根(あわね)村に生まれました。窪田家は、代々庄屋を務める家でしたが、財産を失った結果、借金の返済などで親戚によって支えられていました。そのような中で窪田家に養子として迎えられたのが窪田の父、亮貞(よしさだ)でした。亮貞は長崎に渡ってオランダ医学を学び、シーボルトからも直接学んだようです。その後粟根村に戻って、窪田家を経済的に立て直すと共に、助けてくれた人々の恩に報いるために、最新のオランダ医学を身につけた医師でありながら田舎村の村医を一生務めました。そして、その精神は窪田にも強く受け継がれたようです。

 

 

窪田の生家跡 (撮影:筆者)

 

窪田が18才の時に、粟根村は幕府領から福山藩領へと変わりました。そして、ペリーが来航して世の中は大きく変わり始めます。そんな中、窪田は大坂や京都でオランダ医学を学び、28才で故郷へ戻って、衰えた父に代わって村医となりました。その数年後の正月には、約250人もの村人たちが年始の挨拶に窪田家を訪れたということからしても、地域での村医としての窪田に対する信頼は厚いものがあったようです。

 

福山城址内に立つ阿部正弘の銅像 (撮影:筆者)

 

その頃の福山藩の藩主は、阿部正弘(あべまさひろ:福山藩第7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、日米和親条約の締結などを行なう)で、幕府の老中首座として黒船来航以来の様々な課題を解決するために奮闘していました。ペリーとの交渉を通じて日本の国力の低さを感じた阿部は、諸外国に対抗できる人材を育てるために、それまであった弘道館に代わる藩の学校として、藩校誠之館(せいしかん)を創設します。

誠之館では、漢学や国学の他に医学や西洋式兵学も教えられ、同仁館という医学校兼病院も設置されました。また、すべての民が平等に教育を受けて文明開化の道を押し広げていくという「普通教育」を目指して、普通学科が設けられ、支校としての女学校も設立されました。

しかし、「普通教育」の実践は誠之館のみに限られていたため、窪田はこの教育改革を藩内全域で実施すべきという提案を藩に対して行いますが、財政上の理由から採用されませんでした。そこで窪田は、「啓蒙所」という教育機関を民間の力で設立することを決意します。

 

福山藩校誠之館跡の石碑 (撮影:筆者)

 

啓蒙所は、藩内の各町村に1か所設けられ、身分貧富に関係なく、男女とも7才から10才までの子どもが入学して、文字や算数を学べるという教育機関でした。その啓蒙所を運営していくために、窪田はまずは啓蒙社という民間組織を設立。啓蒙所にかかる年間経費を30口に分けて有志からの出資を募り、その資金を元に設立した啓蒙社によって啓蒙所を運営していく。こうした地元の民間の力による教育機関の運営という手法を、窪田は考え出したのです。

豪農や商人、一定以上の規模の農民たちがこの出資に応じて、事業開始から半年以内には、藩内の町村数の約半数にあたる70か所に啓蒙所が設置され、約3千名の子どもたちが学ぶこととなったといいます。その後、政府によって学制が設けられて全国各地に小学校が設置されていくこととなります。その頃に啓蒙所を視察した文部省の役人は、「啓蒙所には文部省も先手を打たれた感がある」と語ったと言われています。そして啓蒙所も、小学校へと名前と組織を変えていきましたが、民衆の力によって運営していこうとした啓蒙所が、全国画一的な制度の下での小学校になってしまったことに対して、窪田は大きな不満を持ったようです。

 

窪田生家跡に立つ看板 敷地内に啓蒙所があったことが分かる (撮影:筆者)

 

一方その頃の中央政府では、征韓論問題をめぐって内紛が生じ、いわゆる明治6年の政変によって、西郷隆盛(さいごうたかもり:薩摩藩出身の明治政府の初期リーダーの一人)や板垣退助(いたがきたいすけ:土佐藩出身の明治政府の初期リーダーの一人)、木戸孝允(きどたかよし:長州藩出身の明治政府の初期リーダーの一人)などが政府から下野します。その後、大久保利通(おおくぼとしみち:薩摩藩出身の明治政府の初期リーダー)は、木戸や板垣と会談して2人を政府に復帰させます。その際に、3人で合意した改革案に基づく「立憲政体樹立の詔(みことのり:天皇の意思を伝える文書)」を発表。段階的に立憲政治を行なう政治体制にしていくというこの詔をもって、立憲政治を実現していく方針が明らかにされ、大審院(現在の最高裁判所)の設置や、地方官会議を開催することも宣言されました。

 

自由民権運動家の仲間と30代後半の窪田(右側)窪田文家文書・提供広島県立博物館  】

 

この地方官会議というのは、全国の県令と府知事が集まる会議で、地方の庶民の思いを明らかにし、地方行政について議論するという会議でした。この地方官会議について兵庫県令が、『①庶民の意見を把握しておく必要があるので、意見を申し出てほしい。②それらの意見を県民から選ばれた県会で調整した上で地方官会議に持参する。③その際に県民の代表を傍聴者として連れて行く。』と発表したという新聞記事を読んだ窪田たちは、小田県権令(ごんれい:現在の県知事)である矢野光儀(やのみつよし:ジャーナリスト、自由民権家として活躍した矢野文雄の父)に当てて願書(ねがいがき)を提出します。その内容は、『①小田県においても県令が地方官会議に出席する前に県民の意見を十分に把握すること。②そのために民撰議院を開催すること。③県民の代表者を傍聴者として地方官会議に随行させること。』を求めるものでした。

 

『民撰議院の儀についての願書』 窪田文家文書・提供広島県立博物館

 

この窪田たちの願書に対して小田県は、「願い出の趣旨はもっともで急いで対応する」といった意の回答をします。これを受けて窪田は、前もって準備してあった小田県での民撰議院の具体的構想をまとめた献言書を矢野権令に提出します。この窪田の提案に対して小田県は、「地方官会議に臨む前に一般人民の意見を聞きたいので民選議院を開く」と応えました。そしてその民選議院のあり方は、議員の選出はすべて公選とし、選挙権・被選挙権に財産制限などは設けず、会議は公開として一般人民の傍聴を許すといった画期的なものだったのです。

そして当時の行政制度では、県の下に大区、その中に小区という行政区域が設けられていたので、小田県の臨時民撰議院を開く前に、小区から大区へという形での民撰の会議が行われていきました。その中で、粟根村が入っていた第6大区15小区の会議で、窪田たちは以下のような主張を展開します。

まず、当時大きな政治問題となっていた台湾出兵(漂着した日本人が、先住民によって殺害された事件をきっかけとして、日本軍約3千人が台湾に出兵した事件)について、「万機公論に決すべし」とした『五カ条の御誓文』にそむいて、一般人民に問うこともなく行われた以上は、政府にも一般人民にも関係ない一部の「官員のみの戦闘」に過ぎないと批判。したがって、責任のすべてはその一部の官員に求められるべきであり、出兵の費用も政府の費用から出すのではなく、責任がある一部の官員の私財で払われるべきとしました。つまり、民意を反映しない外交権・軍事権の行使を批判、否定するという、民意の尊重を徹底的に求めるものだったのです。

 

『矢野権令への献言書』 窪田文家文書・提供広島県立博物館

 

そして、租税のあり方についても当然民意を尊重すべきであるから、租税についての協議が必要だとする、いわゆる租税協議権を主張。さらに準備中である地租改正についても、土地をめぐる諸条件を正確に把握した上で、平等で公正な税制をしくことを求めました。

こうした窪田たちの主張は、第15小区から第6大区の会議に提案されて決議された上で、小田県の臨時民撰議院の場で主張されることとなりましたが、士族層など旧来の特権層が多数を占めた県会の場で合意を得ることは難しく、この民撰議院も一回限りの臨時の議院として終わる結果となってしまったのでした。

 

一方で窪田は、まだ廃藩置県が行われていない段階で、福山藩庁に対して租税改革論を提案していました。窪田の租税改革論の根底には、農民に対して減税を行なうことによって、国民の多数を占める農民に富を蓄積させることが出来る。そして、農業生産が成長して農民の購買力が増えることによって、商工業も発展していき、その結果国も富んでいくという考えがありました。こうした考えに基づいて窪田は、藩が雑税として取り立てていた枇杷や茶、楮(こうぞ:和紙の原料となる植物)に対する税を廃止するよう要求します。こうした雑税の廃止は、数年後に小田県によって中央政府の許可を得た上で実施されることとなりました。

 

【 『雑税廃止及び輸出入税付加の建言』 窪田文家文書・提供広島県立博物館 】

 

その後、地租改正の作業が小田県でも始められます。本来地租改正は、村々の農民が実際の収穫量を調査し、農民自らが算定した地価を、官の側が検査して決定されることになっていました。ところが、そうした作業を進めていく内に、全体として大幅な地租の減少により歳入が減ってしまうことが明らかとなったため、政府は方針を変更。政府が広い範囲で独自に算定した収穫量の平均に基づく地価を、政府→県→郡→村という形で、押しつけることとしたのです。

 

この動きに対して窪田たちは、粟根村における農家一戸当たりの詳細な収支表を作成します。そして、このような厳しい経済上にある農民に対して、政府が特別に高負担を強いるということは、政府は農民に「勧農」ではなく「禁農」を求めているのではないかと厳しく批判しました。これは、「国民の多数を占める農民の富の蓄積こそが、富国をもたらすのだ。」という窪田独自の思想に基づく主張でした。窪田は、農民に高負担を強いる政府の政策は「禁農」による富国策、それに対して「勧農」による富国策を対置させて、政府の富国策を厳しく批判したのです。

 

その後、三重県で起きた東海大一揆などの反発を受けて政府は、地租率を2.5%に引き下げます。これに対して窪田たち粟根村民は、地租率をかける元となる収穫額の改正を、広島県令(小田県は廃止され、粟根村は広島県に配置されていました)に願い出ます。しかし、広島県福山支庁は、「採用は難しい」と指令書で答えるのみでした。「万機公論に決すべし」「上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし」とする『五カ条の御誓文』を掲げて、新しい政治の実行をうたい、実際に地租率の引き下げをも行なった新政府に対する期待感が高かっただけに、窪田や村民たちの失望はとても大きかったといわれています。

 

『地租改正に付き歎願への指令書』 窪田文家文書・提供広島県立博物館

 

こうした、窪田の指導による粟根村の農民たちの地租改正反対運動は、百姓一揆的な性格を除いた理論的かつ合法的な運動でした。この運動が敗北に終わって深い挫折感を抱いたであろう窪田は、その後政治活動の一線から身を引き、医業に専念することを決意します。しかしそれは、窪田が現実から逃げて医業の世界に引きこもったということではありませんでした。

元々窪田の思想の根幹には「衛生思想」なるものが、確固たるものとして存在していました。それは、窪田が著した『奉天匡救の諸君に質す(ほうてんきょうきゅうのしょくんにただす)』(「匡救」は悪を正して危険から救うこと。「奉天」は小田郡の「医会」である奉天会のことか?)という文書の中で、「①人が天より与えられた生命を全うするためには、健康な肉体がなければならないから、衛生がまず大事である。②その衛生を保つためには、一定の経済力を持つことが必要である。③その経済力を保つためには正しい品行を身につけるべきで、そのためには一定の教育と文化が必要である。④これらを実現するために政府が存在しているのだ。」と表現されているといいます。

 

『奉天匡救の諸君に質す』 窪田文家文書・提供広島県立博物館

 

こうした思想の上に立つ窪田からすれば、②③④の分野から不本意ながら撤退するとしても、①の医業の分野において社会的な事業としての活動を、追求していくこととなります。したがって窪田は、現在の保健所に通ずる「衛生会」を民間の力で組織して、地域の衛生向上に努めました。また、現在の医師会に通ずる「医会」を設立して、地域の医師の技術向上や、患者の共同治療などを実現していきました。他にも、コレラの予防活動や、風土病である片山病の研究など、医業における地域での様々な具体的な活動を、窪田は実践していったのです。

 

窪田は68才で亡くなる2か月前、息子に対して「人の勧誘があっても名ある役人または教員などにはなってはいけない」という遺言を残したといわれています。民間の自分たちの力で、教育や衛生など様々な分野での活動を創り出し、更にそれらを発展させていくために、政治参加や租税のあり方について官と鋭く対立した窪田。その行動を支えた強い意志と信念を感じさせられて、粛然とした思いでその記念碑が立つ生家跡から旧粟根村の風景を眺めた次第です。

 

窪田の生家跡に立つ窪田の記念碑と後ろに見える旧粟根村の風景 (撮影:筆者)

 

自由民権現代研究会代表 中村英一