自由民権運動の壮士たち 第8回 杉田定一(福井県)


「農民の心で一生を貫いた」自由民権運動の壮士 杉田定一(すぎたていいち)

 

【 若き日の杉田 (国立国会図書館 『近代日本人の肖像』より) 】

 

江戸時代は、土地の領主が民衆に年貢を納めさせるのが、税制の中の主要な仕組みでした。明治政府は、財政収入の安定をはかるために、この年貢制度から新しいしい税制へ改革することを検討します。そして廃藩置県が行われて、領主という存在が無くなったことから、税制の改革に着手します。まずは、土地の所有者に地券を発行して、土地の所有者を明確にした上で、江戸時代には禁止されていた土地の売買を許可します。そして、土地から得られる収益に基づいて地価を定めて、その3%を地租として土地の所有者に現金で納めさせることとしました。これがいわゆる「地租改正」という、明治時代初期に行われた税制に関する大改革でした。

 

こうして、まずは地価を定めるための作業が、全国的に行なわれることとなったのですが、地価の元となる、土地からの収益≒収穫量を算定する作業は、農民たちが行なうものとされました。ところが、そうした作業を進めていく内に、全体として大幅な地租の減少となって歳入が減ってしまうことが明らかとなったため、政府は方針を変更。農民が算定した収穫額がそれまでの額より低い場合は、政府が広い範囲で独自に算定した平均額を村に押しつけることとしたのです。

 

【 地券 『農民の心で一生を貫いた大政治家 杉田定一先生』より 】

 

また、江戸時代の年貢率が高かった地域では、地租の方が減税となって農民の同意を得やすかったのですが、逆に年貢率が低かった地域では、地租は大幅な増税となり、農民の大反発を買うこととなりました。ちょうどその頃、ほぼ現在の福井県と同じ県域だった敦賀(つるが)県は、嶺南(れいなん)地域が滋賀県、嶺北(れいほく)地域が石川県に分割されることとなりました。滋賀県となった嶺南地域は、旧小浜(おばま)藩領が大部分。その小浜藩の年貢率は元々高く、地租の方が減税となったため、嶺南地域では農民の同意を得るのが簡単で地租改正の事業は早く終了することとなりました。

 

【 不承服村28か村の分布 『図説 福井県史』より 】

 

一方、石川県となった嶺北地域は、旧福井藩領や幕府領が混在していたため、地租が増税になる地域や、減税になる地域が入り混じって、増税になる地域での事業は難航。特に九頭竜川や日野川といった、大きな川の周辺で川のはん濫による水害に襲われてきた地域は、その実情から年貢率が低く設定されていたため、地租は大幅な増税となりました。そのため多くの村々が、政府の査定に対して不承服を唱えることとなりました。これに対して石川県は、「たとえ富士山が崩れても査定額は変えられない」「したがわない者は朝敵だから外国へ赤裸にして追放する」といった高圧的な態度で、政府の査定額を村々が承服することを強要しました。その結果、嶺北地域の7つの郡ではじめ232か村あった不承服の村は、28か村にまで減少することとなりました。

 

しかし、坂井郡安沢村(現:坂井市春江町安沢)の総代である八尾八兵衛(やお はちべえ)は、「わが村民はそれぞれ自分の民有地に居住している。官有地に居住している村民は1人もいないから、外国へ追放するなどと言われても一歩も動じない」と敢然と反論したといいます。この安沢村をふくむ「徹底不服村」と呼ばれた28か村では、村を挙げての「地租軽減運動」が、一貫して継続されることとなったのです。こうした状況の中で、この「地租軽減運動」の理論的リーダーとして登場したのが、まだ20代後半の若き杉田定一でした。

 

【 地元の鶉(うずら)公民館前庭に立つ杉田銅像 (撮影:筆者)】

 

杉田は、嶺北地域の坂井郡鶉(うずら)村波寄(なみよせ)(現:福井市波寄町)の大庄屋の家で生まれました。杉田が5才の時に母が亡くなります。父である杉田仙十郎は、陽明学を学んだ大塩平八郎(おおしおへいはちろう:江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こしたことで有名)の影響を強く受けて、黒船以来騒然としている世の中で地域の人たちが学ぶ場を持つ必要性を感じていました。そこで亡き妻の供養も兼ねて、地域の人が学ぶ学校を、私費で設立しようとしました。ところが福井藩は、この事業を身分不相応のものとして中止させて、大庄屋の身分も取り上げてしまったのでした。

 

こうした父の影響を受けた杉田は、地元の寺などで教育を受けた後、18才の時に福井を出て大阪や東京などで外国の学問を学ぶようになります。そして杉田は、ちょうどその頃始まっていた自由民権運動に参加。板垣退助(いたがきたいすけ:自由民権運動のリーダー。自由党総理を務める)たちが設立した土佐の立志社に寄宿して、青年たちに漢詩文を教えたりしたといいます。その後、「采風(さいふう)新聞」という新聞を発行する活動を行なった杉田ですが、明治政府が自由民権運動を規制するために作った新聞紙条例に違反したとして投獄されます。出獄後は、板垣退助らと全国各地を遊説する活動を行ないましたが、過去に「評論新聞」という新聞に掲載した茨城県での地租改正反対一揆を称賛した記事を理由に、再び投獄されてしまいます。そして出獄後に福井県に帰郷した杉田は、「徹底不服村」による「地租軽減運動」に合流していったのでした。

 

【 采風新聞 『農民の心で一生を貫いた大政治家 杉田定一先生』より 】

 

当時石川県庁は、「徹底不服村」28か村を除いた嶺北7郡の村々に新税制を実施することを通達。「徹底不服村」には、内務省から新税の実施を厳命する処分書が下されました。これに対して、杉田は「処分書不服とする理由書」を起草し、各村々から県庁に提出されました。この理由書の中で杉田は、『公平の目で見れば、官と民も等しく人類であり、同じ人類なのに民の申し立ては間違いで、官の査定は誤謬なしという道理はない』といった主張を展開したそうです。

 

こうして、単に不服を唱えるのではなく、法理を通して農民の主張の正当性を明らかにしていく運動が開始されました。土佐の立志社からは法律顧問として2人の立志社社員が招かれ、法理で戦っていく態勢を整えた杉田たちは、村々の不服の根拠について数々の論点を指摘し、それに対して県が法理に基づく回答をするよう村々から要求するという形での、大衆的な運動を展開していきました。こうした運動に困惑する県庁の様子を見て、一旦は不本意ながらも県庁の査定額を承服した村々からも、その態度を変えて、処分書の取り消しを求める村も出てきたのでした。

 

【 自郷学舎のあった杉田自宅跡と看板 (撮影:筆者)】

 

一方で杉田は、自宅の酒蔵を開放して自郷学舎(じきょうがくしゃ)を創設し、父が果たせなかった夢である、地域の人が学ぶ学校を実現します。自郷学舎で学ぶために周辺から集まった多くの農家の子弟の中には、当時54才だった安沢村の総代八尾八兵衛らも混ざっていたといいます。彼らは、土佐立志社から来た二人の若者や杉田から、欧米の法理や民主主義の歴史を学び、自分たちの地租軽減運動に生かしていったのだと思われます。

 

そして、この自郷学舎に集まった近隣の村々からの参加者を基盤に、「徹底不服村」28か村からの参加者も加えて、民権結社である自郷社が結成されます。杉田は、この自郷社の代表として、大阪で開かれた第三回愛国社大会に参加。この大会では、国会開設の署名運動が決議採択され、これを受けて地元に戻った杉田は、各地で演説会を開いて署名運動を展開して行きました。この運動は杉田の地元である坂井郡から嶺北地域全体に広がって行き、最終的に嶺北7郡で7041名の署名を集めることに成功したのでした。

 

【 自郷学舎設立大意 (福井県立歴史博物館展示より 撮影:筆者) 】

 

こうした国会開設を求める運動の広がりと共に、地租軽減運動もその力を増していき、県は内務省の処分書を取り消すという譲歩をせざるを得なくなります。この状況の中で、すでに政府の査定額を「承服」していた村の中から、約200村が「不承服」に転じ、収穫量の再調査を求めるようになります。このように嶺北地域の各村々から幾重にも湧き起って来る大衆的な運動の波を受けて、当時地租改正事務局総裁を務めていた大隈重信(おおくましげのぶ:後に自由民権運動のリーダーとして立憲改進党党首を務める)は、七郡において再調査を行なうことを通達することとなりました。

 

こうして再調査の実現という大勝利を勝ち取った杉田たちは、これ以後も再調査のあり方をめぐる運動を続け、約1年間に渡る紆余曲折の末、石川県における地租改正事業は終了し、最終的に地租の見直しによる大幅な減税が実現されたのでした。

 

【 杉田自宅跡に立つ杉田顕彰碑  (撮影:筆者)】

 

その後、地元の圧倒的な支持を受けた杉田は、自由党の党員として衆議院議員を計9期務め、北海道長官や衆議院議長も務めました。その一方で、地元の九頭竜川の改修や三国(みくに)鉄道の敷設などにも尽力しました。しかし、そうした活動を続けた中で大庄屋だった頃からの家の財産はすべて失ってしまったそうです。現在、杉田の活動は福井の地ではほとんど忘れ去られてしまっているようですが、地元の鶉地区を訪れると、その公民館の前庭には杉田の銅像が立っており、公民館の中には杉田の遺品を展示するコーナーがあり、『農民の心で一生を貫いた大政治家 杉田定一先生』という小冊子もその公民館によって発行、販売されています。

 

【 鶉公民館内にある杉田に関する展示(撮影:筆者) 】

 

その公民館の近くにある杉田の自宅跡は、草茫々の荒れ地となってしまっています。しかし、裏山の山上にある墓地には、『擁憲院鶉山(じゅんざん)大居士』(※杉田は地元の地名である鶉から取った鶉山という号を使っていました)という戒名が記された墓が青空の下に、郷土の地を見下ろすように敢然と立っていました。地租軽減のために多くの農民と共に戦い、憲法に基づく政治を実現するために議会人として活動し抜いた杉田は、まさしく「農民の心で一生を貫いた」自由民権運動の壮士だったのだと思わせられた次第です。

【 杉田墓碑 (撮影:筆者)】

 

【 自由民権現代研究会代表 中村英一 】