自由民権運動の壮士たち 第7回 市川量造・中村太八郎(長野県)
国宝松本城を守った男 市川量造(いちかわ りょうぞう)
長野県松本市にある国宝・松本城は、姫路城や熊本城と並ぶ日本の名城として有名です。しかし実はこの松本城は、破壊されようとしていた時期があったのです。それに待ったをかけて、現代に松本城を残すために貢献したのが、市川量造(いちかわ りょうぞう)という人でした。
【 国宝 松本城(撮影:筆者)】
江戸時代が終わった明治時代の初期、時代遅れの象徴となってしまった松本城は、民間に払い下げられる事となりました。天守なども入札にかけられて、現在の金額で言うと400万円程度で払い下げられる事が決まりました。こうした事態に対して市川は、天守で博覧会を開き、その売上げで城を維持していくべきとする「建言書」を、当時の県(筑摩県)に提出します。その頃イギリスのロンドンでは、万国博覧会を開くためにクリスタル・パレスという建物が建てられて、第1回と第4回の万国博覧会が盛大に行われていました。市川は、松本城をこのクリスタル・パレスのような、常設の博物館にする構想を抱いていたようです。
これに対して、市川のような民間の活力を積極的に活用して、文明開化を進めていこうとした県は、博覧会を行なう事を許可。市川を中心に約60名を世話人に任命します。そこから松本博覧会社という会社が設立されて、その年の冬に40日間に渡って博覧会が開かれます。博覧会には毎日4千から5千を超える人々が集まり、大成功を収めました。自信を持った市川たちは、第2回目の博覧会の開催を県に請願。それから4年間で、5回の博覧会が開かれ、市川の「建言書」の内容は、見事に実現されたのでした。こうして、松本城も破壊を免れて守られる事となったのです。
【 松本城天守内に展示してある市川の「建言書」(撮影:筆者)】
その後県会議員となった市川の下に、千葉県の県会議員である桜井静【さくらい しずか:千葉県芝山町の自由民権家】から手紙が届きます。その内容を簡単に言えば、「全国に県議会が開設されたが、その権限は制限されている。したがって人民の福利を進める事が出来ないので、全国の県会議員が団結して国会を開設しよう」というもので、桜井はこうした手紙を全国の県会議員たちに送っていたのでした。
国会開設を求めて民権結社・奨匡社(しょうきょうしゃ)を結成
市川は、桜井に賛意を示し、協力を誓う回答を送ります。そして、仲間と議論して国会開設を求める活動を始め、奨匡社(しょうきょうしゃ)という民権結社を設立します。「奨匡(しょうきょう)」というのは、中国の古典から取った言葉で、「政治的に良い事は奨(すす)め、悪い事は匡(ただ)していく」という意味。その奨匡社に、県下各地から千名を超える人たちが加わりました。
その中でも教員が多かったのが特徴的で、若い小学校の先生たちが国会開設を求める署名活動を、県内各地で精力的に行なったといいます。こうした人たちが、その後の時代に「教育県長野」の基礎を創っていったのかもしれません。こうして集められた約2万2500人の署名を、社の代表が持って上京。署名を天皇に渡して、国会の開設を請願しようとしました。1か月半に渡って取り組まれたこの活動は、いわゆる請願権を国民の権利にしようとした面からも、全国的に注目されたようです。
松本に独自に鉄道を通す事業に尽力
市川は、奨匡社の活動や新聞の出版などを通じて自由民権運動に参加する一方で、松本に鉄道を通す活動に取り組みます。これは、東京と京都を結ぶ鉄道として、政府は初め中山道のルートでの計画を進めていました。しかし、建設費の面などから東海道のルートに変更される事になり、その結果松本には鉄道が通らない事になってしまいました。これに憤った市川は、松本-甲府-御殿場を結ぶ鉄道を独自に通す活動を始めたのです。
まず市川は、大隈重信【おおくましげのぶ:明治初期に、共に大蔵官僚だった伊藤博文と協力してイギリスの銀行から融資を引き出し、日本で最初の鉄道開設を実現】に相談した上で、仲間と共に鉄道建設の請願書を政府に提出し、仮免許を手に入れます。そして、長野や山梨、東京で出資者を募って、甲信鉄道株式会社を設立。この会社の事業として、線路図面の作成や測量調査といった具体的な活動に着手していきました。松本城の際も、この甲信鉄道の際も、税金に頼らずに独自の企業活動によって新たな社会を創ろうとした所に、市川の自由なチャレンジ精神がうかがえます。
【 松本城内に飾られている市川のレリーフ(撮影:筆者)】
ところが、甲信鉄道会社を設立してから5年後に、国によって中央本線が建設される事となりました。そして、松本-甲府もこの路線に含まれる事となったため、甲信鉄道の計画は中止。市川が私財を投じて実現しようとしてきた甲信鉄道の夢は、国によって実現される事になったのでした。
普通選挙の父 中村太八郎(なかむら たはちろう)
一方この中央本線建設に関して、松本をそのルートに含めるように求める運動も地元では始められていました。この運動に若くして参加していたのが、松本に隣接した山形村の名主の家に育ち、東京の専修学校(現在の専修大学)で法律や経済学を学んできた中村太八郎(なかむら たはちろう)でした。この運動の資金集めなどで活躍した中村は、その後、木下尚江【きのした なおえ:後にキリスト教信仰に基づく作家となる】や降旗元太郎【ふるはた もとたろう:後に衆議院議員】らと共に、普通選挙を実現する運動(普選運動)を始めます。
【 木下尚江 『国立国会図書館 近代の肖像』より 】
彼らは自由民権運動に直接参加した世代ではありませんでしたが、運動の様子 を実際に見聞きし、運動に参加した教員に学校で教わるなどして、その影響は十分に受けていました。この自由民権運動の成果として開設された国会でしたが、その選挙に参加するためには財産(納税額)による制限が法律で定められていました。その結果、有権者数は全体のわずか1%! こうした悪い部分を匡(ただ)し、より良い国会に発展させていく事を奨めていく。まさに「奨匡(しょうきょう)」という意味においても、中村たちの普選運動は、市川たちの自由民権運動を継承したものと言えるかと思われます。こうして松本の地で中村たちによって始められた普選運動は、東京でのそれより2年以上早い、まさしく日本で初めての普選運動だったのです。
【 松本市図書館前に立つ「普選実現運動発祥の地 記念像」(撮影:筆者)】
中村たちは、まずは第14議会に普通選挙の請願書を提出。政府はこの議会で、納税による制限を15円から10円に引き下げました。その後、中村たちが発行した機関誌『普通選挙』などを通して普選運動は盛り上がり、第16議会では、降旗ら4名の衆議院議員によって普通選挙法案が提出されましたが、わずかな差で否決されてしまいました。
約30年かけて普通選挙を実現
その後、日露戦争が起こった事などもあって、普選運動は沈滞していきます。そうした中でも普選実現を目指した中村たちの運動は粘り強く続けられ、いわゆる大正デモクラシーの機運が盛り上がってくると、運動も復活。中村を実行委員長として、5万以上の人々が集まっての普選を求める大集会が、東京の日比谷公園で開かれるようになりました。こうした動きを受けて、政府は納税額を10円から3円に引き下げますが、まだ財産による制限自体は撤廃されませんでした。
そして、中村たちが普選運動を始めてから約30年後の大正14年に、普通選挙法(男子のみ)がようやく公布。東京では普選祝賀会が開かれ、翌日の報知新聞は、「30年の長きにわたり、終始一貫、献身的努力を普選の達成のために捧げた『普選の大恩人』である中村の功労を忘れてはならない」と報道。一方、当の中村は「ここまでこぎつけるのにずいぶん努力したが、今はもうお祭りのような騒ぎになってきたから、自分はもうやらなくてよい」と言って、教育の無償化といった次なる課題に取り組んでいったといいます。
【 山形小学校そばにある顕彰碑(撮影:筆者)】
現在、山形村にある山形小学校を訪れると、そのグラウンドの脇に中村を讃える石碑が静かに立っています。同じ村内の寺院の境内にも中村の顕彰碑はあるそうで、そこには中村が亡くなった際に木下尚江が寄せた、『秋晴れの高き空にも似たりける、君を思ふて涙こぼるる』という歌が刻まれているそうです。
新たな時代と社会を創るために、チャレンジし続けた市川や中村の精神は、まさしく「秋晴れの高き空」のようであったのだろうと、感じさせられた次第です。
【 自由民権現代研究会代表 中村英一 】