自由民権運動の壮士たち 第6回 湯浅 治郎(群馬県) 同志社の基礎を築いた男


【 湯浅治郎の肖像写真 有田屋所蔵 】

 

早稲田といえば大隈重信(おおくま しげのぶ)、慶應といえば福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)、同志社といえば新島襄(にいじま じょう)がその大学の創立者として有名ですが、新島襄亡き後の同志社の財務部門を一身に担って、大学発展への基礎を築き上げたのが湯浅治郎(ゆあさ じろう)という人でした。

 

同志社の基礎を築いた男

 

江戸時代後半、現在の群馬県安中(あんなか)市は、安中藩の城下町として、また中山道沿いにある交通の要の地として栄えていました。その中山道に蔵と店を構えて、味噌やしょう油の醸造、販売を行なっていた有田屋の長男として、幕末に湯浅は生まれました。幕末の開国以来、生糸は日本の輸出品の中心となりました。このため、養蚕と生糸の生産が盛んな土地だった安中周辺は、生糸の輸出で好景気を迎えます。その中で有田屋も、経営規模を拡大していったのでした。

 

    【 便覧舎址の碑 (撮影:筆者)】

 

この有田屋を、三代目当主として15才で継いだ湯浅は、養蚕・生糸の事業にも力を入れます。湯浅は、質の良い蚕卵紙(蚕の卵が産みつけられた紙)を周辺の農家に売って、そこで生産された生糸を自ら横浜に運んで取引をするといった輸出事業も行いました。

こうして得た利益で、湯浅はアメリカの本や新聞、福沢諭吉の本などを横浜の地で買い求め、知識を広げて行きます。そして集めた蔵書約3千冊を、便覧舎(びんらんしゃ)という私設の図書館で、周辺の人たちに無料で公開しました。これは、日本で最初の図書館の一つとされています。こうした中で湯浅やその仲間たちは、欧米の経済や文化を知り、それらを積極的に取り入れていく進取の精神を身につけていく事が出来たのでした。

 

アメリカ帰りの新島襄と出会う

 

こうして若くして社会的地位を固めた湯浅は、その人生を大きく変える人と出会います。それが、アメリカから帰ってきた新島襄との出会いでした。新島は、安中藩の江戸住みの下級武士の家に生まれ、脱藩ならぬ脱国をしてアメリカに渡り、西洋文明を学びます。そしてキリスト教を深く信仰するようになった新島は、本来ならば「国禁」を犯した犯罪者として、一生日本に戻る事は出来ませんでした。しかし、アメリカを訪れた岩倉使節団の通訳をした時にその能力を高く評価され、明治政府によって正式な留学生扱いとされて、10年ぶりに帰国する事が出来るようになったのでした。

 

【 新島襄 『国立国会図書館 近代の肖像』より 】

 

その頃、新島の家族は江戸の武家屋敷を引き払い、安中で暮らしていました。家族と再会するために安中を訪れた新島は、1か月ほどの滞在期間の間に、西洋文明やキリスト教を伝える講演活動を積極的に行います。この講演を聞いてキリスト教への強い関心を持った湯浅は、仲間たちとキリスト教を学ぶ活動を始めます。そして、それから4年後に湯浅は、妻と一緒に便覧舎で新島の手によって洗礼を受け、キリスト教の信仰の道に入っていく事となったのでした。

そして湯浅と仲間たちは、安中の地に独自に教会を設立します。当時の日本で設立された教会のほとんどは、海外の教団の支援を受けて運営されていました。しかし湯浅たちはそうした支援を一切受ける事なく、自分たちの力で教会運営を行いました。これは、こうした活動を成り立たせる経済力と、自治と自立を求める強い精神を、湯浅が持っていたゆえの事だと思われます。

 

    【 新島襄旧宅跡 (撮影:筆者)】

 

こうして、経済的にも精神的にも自らを確立した湯浅は、社会的事業に更に取り組んでいく事となります。ちょうどその頃、東京-群馬-長野を結ぶ鉄道を建設しようという気運が盛り上がっていました。そして、岩倉具視【いわくら ともみ:公家出身の明治政府の中心人物】を理事長とする日本鉄道会社が設立され、湯浅もその理事・副社長となりました。湯浅は、土地の買い上げや会社の株への出資を求めて奔走し、自らも大株主として、日本で初めての民間鉄道実現のために尽力しました。

 

日本で初めての民間鉄道開設に尽力

 

こうした湯浅たちの努力の結果、まずは上野-高崎間が開通します。しかし、高崎から安中を通り長野県の軽井沢まで鉄道を通すためには、急峻な碓氷(うすい)峠を越えるという、極めて困難な課題を解決しなければいけませんでした。そこで湯浅たちは、ドイツの登山鉄道で使われていたアプト式という方式を取り入れ、最新のアーチ橋を造る事などによって、開通を実現させます。

この鉄道の開通によって、生糸を横浜に運ぶ事が簡単となり、地域の養蚕・生糸事業をさらに発展させていく事が出来るようになりました。そして地域経済が発展していく中で貨幣の流通量も増え、銀行を開設する必要も生まれてきたので、湯浅たちは県内で4番目の銀行となる碓氷銀行を設立。湯浅がその初代頭取を務めたのでした。

 

  【 碓氷峠に現存するアーチ橋(撮影:筆者)】

 

このように地域の社会的、経済的リーダーとなって行った湯浅は、第1回県会議員選挙に当選して県会議員となります。ちょうどその頃、現在の高崎市周辺で、江戸時代に共有地だった山をめぐっての騒動が起こり、約5千人もの農民が武器などを持って、高崎にある県庁に押しかけようとしました。

ここで湯浅は、自ら代表を買って出て、集まった農民たちの中に単身で乗り込みます。そして、農民たちのリーダーと直接話をして、これを説得し、騒動を無事治めました。これは、商人としての巧みな交渉術とキリスト教への信仰に基づく強い勇気を、湯浅が持っていたからだと言われています。そしてこの事件によって湯浅は、県議会内で大きな信頼を得る事となりました。

 

郡長の公選を県議会で提案

 

こうして、県議会の中で力を持った湯浅は、官選で県内各地の郡に置かれていた郡長を、郡内の人々の選挙によって選ぶ事を、他の議員と共に提案します。郡長の公選を求めたこの提案は、残念ながら政府からの通達によって却下されてしまいますが、次の二つの考えから成り立っていました。まず、地域の事を知らない人間が郡長となっても、地域住民の幸福を増進する事は出来ないという自治の精神。そして、郡長の給料は国ではなくて地方税から出しているのだから、その地方の住民による公選が当然だという納税者としての権利の意識。これはまさに、自由民権の精神から生み出された行動だったのだと言えると思われます。

 

売春婦を廃止する運動に取り組む

 

この後湯浅は、娼妓【しょうぎ:公認の売春婦】を廃止する運動に取り組みます。明治初期、日本政府は国際的な関係から娼妓解放令を出して、指定場所に限って娼妓を認める事としました。そして群馬県では、安中など中山道沿いの11か所での営業を県知事(当時は県令)が認めました。

湯浅は、この娼妓を廃止する運動を県議会の中で始めます。そして、県知事に対して娼妓の廃止を求める提案を、県議45名中43名の賛成を集めて成立させます。これに対して風俗業者の側からの猛烈な反対運動が起こり、彼らは湯浅が泊まっていた旅館に押しかけます。しかしこの時も湯浅は、自らの巧みな交渉術と強い勇気で対応して事なきを得ます。この湯浅による娼妓の廃止を求める戦いはその後も息長く続けられ、7年後に県知事から廃娼令が出され、群馬県は全国で唯一の娼妓廃止県となったのでした。

 

【 江原素六 『国立国会図書館 近代の肖像』より 】

 

そして湯浅は、第1回衆議院選挙に立憲改進党から出馬して衆議院議員となり、植木枝盛【うえき えもり:自由民権運動の理論的指導者】や江原素六【えばら そろく:連載第10回を参照】らと共に、娼妓を廃止する運動を東京で展開していきました。

 

同志社に人生を捧げる道を歩む

 

また財政・経済に明るかった湯原は、衆議院の財政担当の委員長を務め、将来は大蔵大臣を担う存在として期待されていたとも言います。その一方で湯浅は、新島襄が創立した同志社の理事となり、新島と共に「同志社通則」という同志社の社則を作成し、その経営にも深く関わっていました。ところがこの時期に突然、新島襄が若くして亡くなり、創立者を失った同志社は危機的な状況におちいります。そこで湯浅は、衆議院議員を辞めて京都に移ります。そして、新島の精神を引き継ぎ、同志社を守っていくために、同志社の財務責任者としての活動を、湯浅は一切報酬をもらわずに行なっていく事になりました。

 

  【 現存する新島襄記念会堂(撮影:筆者)】

 

こうして湯浅は、自分の人生を同志社に捧げる道を歩んで行きました。それから20年後、新島の念願であった同志社を大学にする事業にめどが立った時点で湯浅は京都を離れ、東京と安中を往復する生活に戻りました。そして、新島襄を記念するための新会堂を安中教会に建設します。この建物は、現在も安中教会の会堂として使われています。

また、湯浅の弟の湯浅半月(はんげつ)は同志社大学神学部教授となり、同志社の正三角形を三つ寄せた校章を考案。湯浅の息子の湯浅八郎は、戦前に第10代同志社総長となりますが、大学の自治と自由を守るために軍部と対立して辞任。戦後に第12代総長に返り咲いた後、安中市に創設された新島学園(中学・高校・短大)の初代校長兼理事長にもなりました。湯浅が人生をかけて守ろうとした新島の精神は、このようにして現在に引き継がれているのです。

 

    【 現在の有田屋 (撮影:筆者) 】

 

そして、湯浅が3代目当主を務めた有田屋は、現在も中山道に面した同じ場所で、味噌しょう油の醸造業を営んでいます(現在7代目)。その有田屋を訪れると、そこには小さなギャラリーがあって、湯浅の肖像写真などが展示してあります。その中には若き日の湯浅の肖像写真もありました。その端正で温和な顔つきからは、新しい時代の中で自治と自立を追い求めて行動し続けた湯浅の、強い意志と気高い精神を感じさせられた次第です。

 

【 自由民権現代研究会代表 中村英一 】