自由民権運動の壮士たち 第4回 前島密と室考次郎(新潟県) 後編
いわゆる「明治14年の政変」で政府を下野した大隈重信(おおくま しげのぶ)や前島密(まえじま ひそか)は、東京で立憲改進党を結成して、自由民権運動に参加して行きます。そして、地元上越出身の前島の誘いを受けた自由民権家の室考次郎(むろ こうじろう)たちは、上越立憲改進党を結成します。
【 室考次郎 『上越市史』より 】
この上越立憲改進党は、①皇室の尊栄を保ち、人民の幸福をなしとげる。②司法・行政・立法の三権を対立させる。③地方自治の基礎を立てる。④内治の改良を進めて国権を拡張する、といった穏健な理念を掲げていました。そして室たちは、自由民権を求める言論活動を行なっていくために、高田新聞社を設立して高田新聞を発行します。ちょうどその時、室たちと別れた自由党員たちを取り締まるために、検察と警察がスパイを使ってでっち上げた「高田事件」が起こります。この事件に対して高田新聞は、自由党員たちを擁護し、検察と警察によるでっち上げを厳しく批判する主張を展開します。
【 高田新聞 『上越市史』より 】
その上で高田新聞は、①国会開設前の政府は不完全。②政府の要人に責任を押しつけても政治の改良にはならない。③政治の改良を図るための革命や暗殺という手段は、社会に弊害を与えるから取ってはならない。④だから、「青年決起の志士」は過激に陥ってはならない。⑤そして、近く開かれる国会の下で、穏当で着実な手段で政治の改良を図っていくべき、と主張しました。このように高田新聞は、自由党の急進的な行動に理解を示しつつも、あくまでも政治の改革は、穏健な手段で着実に進めていくべきという意見を、広めていったのです。
そうした記事の内容が支持されて、高田新聞は当時としては珍しく1日に1000部以上も発行されました。こうした高田新聞の人気の背景には、室たちの穏健な活動理念や主張。病院や学校作りといった、室たちの社会的活動の実績に対する高い評価。そして、豪商の室による財政支援があったと言われています。
【 早稲田大学にある小野梓の銅像(撮影:筆者)】
その後室たちは、改進党の勢力拡大を目指して、自由党の勢力の強かった高田や柏崎の地での遊説活動を積極的に行なっていきます。東京から立憲改進党の中心メンバーである小野梓(おのあずさ:土佐出身の自由民権家、大隈重信と共に活動し、「早稲田大学建学の母」とも言われる)を招いた演説会は、高田や柏崎で5回行われ、各地で1000人から1500人の人を集める大盛況となりました。小野は、織田信長軍と戦う時に上杉謙信が言ったという「越後男児の技量を示さん」という言葉を引用。「新潟の人たちには、昔から謙信のような強さがある。そうした人たちによって地方から政治改革を行なっていくのだ」といった、地元の人たちの心をつかむ巧みな演説を行なって、拍手喝さいを浴びたと言います。
【 勧業博覧会の開催 前島密記念館展示より 】
また室たちは、地元に鉄道を敷く運動にも熱心に取り組みました。元々地元の産業振興に強い関心を持っていた室は、東京で開かれた第2回勧業博覧会を見に行きます。実はこの勧業博覧会というのは、駿河藩で産業振興に取り組んだ経験のあった前島が大久保利通に提案。それを受けて大久保が始めさせたものでした。その第2回目の博覧会を見るために上京した室は、日本鉄道株式会社が設立された事を耳にします。東京から群馬県の高崎まで鉄道を敷く事を目指して、この会社は設立されました。民間の力による鉄道建設に強い関心を抱いた室は、この会社の創立委員などを訪ねて、鉄道建設について具体的に調べていきます。
【 室の上京日記 『新潟県史』より 】
それから地元に戻った室は、地元の直江津から高崎まで鉄道を敷いて、上越地方と東京を鉄道で結ぶ事を決意。そして、自ら新たな鉄道会社の基本構想を創り上げて、新潟県と長野県の仲間たちに相談した上で、信越鉄道会社の発起人総会を開催します。その後再び上京した室は、日本鉄道株式会社の指導を受けながら創業費用や営業収支の調査作業を行うと共に、東京在住の新潟県と長野県の有力者たちに、この事業への参加を呼び掛けて行きました。
【 直江津から初めて走った機関車 『上越市史』より 】
これに対して明治政府は、高崎から岐阜県の大垣を結ぶ中山道ルートで鉄道を敷く事を決定。これによって、まずは高崎から長野県の上田までを結ぶ鉄道計画が始まりました。これを受けて室たちは計画を変更。直江津から上田までのルートで、民間の力による鉄道の建設を目指す事としました。税金の力に頼らず、あくまでも民間の自分たちの力で鉄道を通そうとした室たちの行動と志は、後に日本中にまん延してしまった「我田引鉄」という、国と税金に頼る動きとは全く違っていたのです。
【 早稲田大学にある小野梓記念館(撮影:筆者)】
一方、立憲改進党を結成した大隈や小野たちは、これから始まる議会政治・政党政治を担っていく人材を育成する必要性を感じていました。当時、専修学校(現在の専修大学)や東京法学社(現在の法政大学)、明治法律学校(現在の明治大学)といった私立の法律学校が続々と創立されていましたが、こうした学校の目的は法律家の育成にありました。これに対して大隈や小野たちは、法律家のみならず、これからの議会政治・政党政治を担っていく人材を育成していくべきと考えて、当時は東京大学にしかなかった政治学科を設けた学校の創立を決意します。
【 早稲田大学にある大隈重信の銅像(撮影:筆者)】
こうして創立された東京専門学校(現在の早稲田大学)は、外国の学問からの独立と政治権力からの独立という、二つの意味の「学問の独立」を掲げました。大隈は、学校の創立のための資金は提供しましたが、自分の政治的な立場が「学問の独立」を侵さぬようにするため、学校の役職には就きませんでした。そこで、小野が学校運営の先頭に立ち、大隈の養子の大隈英磨(おおくま ひでまろ)を初代校長として、前島たちも運営に参加して行きます。ところが小野が33才の若さで急逝。代わりに前島が2代目校長として、草創期の早稲田大学の運営を担っていったのでした。
【 早稲田大学から前島に送られた感謝状 前島記念館蔵 】
その後、室たちが夢に描いた信越線は国によって開通され、東京-直江津間が鉄道で結ばれる事となりました。そして、この直江津から新潟まで鉄道を伸ばそうという気運も生まれてきました。そこで前島は、渋沢栄一(しぶさわ えいいち:第一国立銀行や東京海上火災保険、キリンビールなど数多くの企業の設立に関わり、「日本資本主義の父」とも言われる)の協力を得て、北越鉄道会社を設立します。八つのトンネルを通す難工事といった困難にも直面しましたが、十年近くかけて新潟までの鉄道が開通。こうして、東京-直江津-新潟が鉄道で結ばれる事となったのでした。
【 室の功績をたたえる石碑(撮影:筆者)】
そして国会が開設されると、室は立憲改進党から出馬して衆議院議員を5期12年務めると共に、日本で初めての政党内閣である第一次大隈内閣が成立すると、大隈の推薦で愛媛県知事を兼任する事にもなりました。このように、新しい社会を創るために全力で行動し続けた室でしたが、亡くなった時にはその財産をほとんど無くしていたと言います。その後、大隈が題字を書いた、室の功績をたたえる石碑が仲間たちによって建てられ、現在も高田城跡にある高田公園の中に立っています。
【 晩年の前島 前島記念館蔵 】
新しい時代に求められる知識を自らの努力で身につけて、新たな自由な社会を創るために貢献した前原。また、自分の全人生を賭けて熱く行動し抜いた室。冷戦の終焉とIT革命によるグローバル化によって、明治初期と昭和の敗戦期に続く「第三の開国」を迎えているとも言われる、現在の日本。今こそ前原や室のような努力と行動を、敢然と行なっていく気概が、私たちには求められているのであろうと、強く思わされた次第です。
【 自由民権現代研究会代表 中村英一 】