自由民権運動の壮士たち 第4回 前島密と室孝次郎(新潟県) 前編


前島密(まえじま ひそか)と言えば、日本の郵便制度の創設者であり、その肖像が1円切手にも使われている「郵便の父」として知られています。実は、この前島も40代の頃に自由民権運動に参加していたのです。

 

【 前島の肖像を使った1円切手 前島記念館展示より 】

 

前島は、江戸時代の後半に現在の新潟県上越市にあった上野家という豪農の次男として生まれ、12才の時に江戸に出て、医者になるために蘭学の勉強に励みます。そうした中で18才の時に、黒船が来航。ペリー提督との交渉団の従者が募集されているのを知った前島は、自ら応募して現地で黒船の姿を自分の眼で確かめます。その経験から人生の方針を大きく変えた前島は、海軍学と英語を学ぶ事を志すようになったのです。

 

【 前島が使った英語の学習ノート  前島記念館蔵 】

 

 

その後前島は、幕府が造った西洋式の帆船での、日本を一周する航海実習に参加して、航海術を身につけます。また長崎で、後に立教大学を創設するウィリアズムなどのアメリカ人牧師から直接学ぶなどして、英語力も身につけて行きました。こうした力が認められて、出雲藩や越前福井藩からの依頼で航海術を指導。また、薩摩藩が開設した藩校の英語の教師として、鹿児島に招かれたりもしました。

 

その後、幕臣の前島家に養子として入って武士となった前島は、幕府が創設した西洋学問の教育研究機関である、開成所(かいせいじょ:現在の東大の源流と言われる)の翻訳係や教授となります。その後明治維新となって、徳川家と共に静岡の地に移った前島は、遠州中泉(現在の静岡県磐田市)の奉行となって、無職となった幕臣たちの働く場を確保するために、織物や養蚕といった産業振興に取り組みました。

 

【 30代前半で幕臣の頃の前島 前島記念館蔵 】

 

その頃新政府では、大久保利通(おおくぼとしみち:薩摩藩出身の初期の明治政府のリーダー。日本の官僚機構の基礎を築く)が、数百年間の様々なしがらみを断ち切って、全く新しい政治を行なっていくために、京都から大阪への遷都を提案していました。これを知った前島は、大久保に江戸への遷都を勧める建言書を届けます。

 

その内容は、「東北、北海道も視野に入れて、帝都は国の中央にあるべき」「大阪は港も小さく、河川も狭いのでこれからの時代の船での輸送には不適当」「大阪は市街地が小さく道路も狭いので、開発の余地が少ない」「江戸ならば、江戸城や各藩の藩邸などを利用出来るので、官庁の建物の新築に大きな予算を使う必要がない」といった、抽象的な観念論ではない、現実の分析に基づく具体的な提案だったのです。

 

【 鉄道敷設の試算 前島密記念館展示より 】

 

この建言もあって東京に移った明治新政府に、前島は招かれる事となりました。その新政府の若手リーダーだった大隈重信(おおくま しげのぶ:10代の頃に、佐賀藩が作った模型の蒸気機関車を見て感銘を受ける)や伊藤博文(いとう ひろぶみ:20代でイギリスに留学した時に、イギリスの鉄道網を見て感動する)は、日本で最初の鉄道を建設するという夢の実現に取り組んでいました。この二人の若手リーダーの下で前島は、抽象的な鉄道是非論を唱えるのではなく、建設費や収支の見通しなどを具体化した計画書を作成します。大隈と伊藤はこの計画書を使って鉄道反対派を説得。こうして、日本で初めての鉄道が実現されていく事となったのでした。

 

【 郵便事業の創業 前島密記念館展示より 】

 

この後、交通・通信の責任者になった前島は、藩ごとにあった壁を取り払って、全国を自由に行き来する事が出来る通信制度を提案します。ところがその頃、鉄道建設の資金をアメリカやイギリスの民間から集めようとしていた件でトラブルが起こり、前島は問題解決のためにアメリカとイギリスに出張する事となりました。そしてこの旅で、アメリカやイギリスの近代的な郵便制度を目にした前島は、帰国後にそうした制度の日本での実現のために、更に力を尽くしていったのです。

 

【 陸運会社や海運会社を創立 前島密記念館展示より 】

 

この際に前島は、ただ単にアメリカやイギリスの制度を輸入しようとはせず、また多額の税金を使おうともしませんでした。前島は、日本に元々ある民間の力を積極的に活用していったのです。まずは、政府が飛脚業者に支払っている経費を資金として使って、郵便制度を創設する事を企画します。

 

それから、全国に存在していた飛脚業者を結集して、陸上輸送を行う会社を設立し、全国各地に設置した郵便局に手紙やお金を運ぶ役割を担わせました。これが現在「ペリカンの日通」で知られている、日本通運の始まりでした。また、三菱商会の力を使って、海上輸送を行う会社を設立。これが後に、日本の海運のトップ企業である日本郵船に発展していったのです。そして、こうした民間の力を活用する事によって、多額の税金を使う事もなく、日本で初めての郵便制度が創設されていったのでした。

 

【 若き頃の前島密 『国立国会図書館 近代の肖像』より】

 

このように前島は、大久保や伊藤、大隈の下で、新たな交通・郵便制度を創り上げて行きました。しかし、大久保が暗殺された3年後、政府の中枢を共に担っていた伊藤と大隈の間に、深刻な対立が生まれます。それは、自由民権運動の盛り上がりを受けて求められた、国会の開設と憲法の制定のあり様をめぐっての対立でした。

 

この対立が激化した結果、いわゆる「明治14年の政変」で大隈は政府を追われ、前島や犬養毅【いぬかい つよし:後に憲政の神様と呼ばれ、総理大臣を務める】、尾崎行雄【おざき ゆきお:犬養と共に憲政の神様と呼ばれ、衆議院議員を63年間務める】といった面々も政府を下野して、在野での政治活動を行うようになります。この時、板垣退助【いたがき たいすけ:自由民権運動のカリスマ的リーダー】を党首とする自由党が結成されますが、これよりも穏健な政党としての立憲改進党が、大隈や前島たちによって結成されました。

 

【  前島の生家跡にある前島密記念館と前島の銅像(撮影:筆者)】

 

政府を離れた前島は、各地方の自由民権家たちに、改進党勢力への参加を呼び掛ける活動を行なっていきます。そして、前島の出身地である新潟県上越市で、この呼びかけに応じた民権家の一人に、室孝次郎(むろ こうじろう)がいました。

 

室は、現在の上越市にあった高田藩の豪商の家に幕末に生まれ、いわゆる勤王の志士として、戊辰戦争では新政府軍に協力して戦いました。その功績が認められて、新政府から賞状とほうび金をもらったり、明治天皇に拝謁したりした室は、高田病院(現在の新潟県立中央病院)や高田学校(現在の県立高田高校)の設立などに協力して、新しい時代の地域づくりに貢献して行きました。

 

【 室孝次郎 『上越市史』より 】

 

このように新政府に近い立場で活動していた室でしたが、上越地方でも自由民権運動が盛んになってくると、自ら運動に参加して行きます。そして、ちょうど大隈や前原が下野した頃、板垣退助が上越高田を訪れて大演説会を行ない、その2週間後に東京で自由党が結成されます。

 

これを受けて、上越地方でも頸城(くびき)自由党が結成されて、室も参加しました。しかしその翌年、東京の自由党と合併するか否かをめぐって党内で意見が対立し、投票の結果1票差で合併が決定。これに不満を持った室たちは党を抜けます。一方でその1か月ほど前に、東京では立憲改進党が結成されていました。そこで地元出身で改進党の幹部でもある前島の誘いを受けた室たちは、自分たちで上越立憲改進党を結成したのでした。

(後編へ続く)

 

【 自由民権現代研究会代表 中村英一 】