自由民権運動の壮士たち 第2回 米澤紋三郎(富山県)
明治時代の初め、富山県は石川県の一部となっていました。その石川県から独立して、富山県を分県させるために力を尽くし、「分県の父」と呼ばれたのが米澤紋三郎(よねざわ もんざぶろう)という人でした。
【 晩年の米澤紋三郎:米澤記念館蔵 (撮影:筆者) 】
民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつ けんぱくしょ)を、板垣退助【いたがき たいすけ:自由民権運動のカリスマ的指導者】たちが政府に提出した時から自由民権運動は始まった、とよく言われます。その建白書の中には、『政府に対して納税の義務がある国民は、政府が行なうことについて知ることができ、その是非を議論する権利を有しています』と書かれています。この「納税する者こそ、税金の使い方を自分たちで議論し、自分たちで決めていく権利を持つ」という考え方こそが、自由民権運動の大本にある考えです。そして、こうした考えに基づいて湧き起ったのが富山での分県運動でした。
【 富山県入善町にある米澤記念館 (撮影:筆者)】
明治時代になって新政府が行なった廃藩置県によって、いわゆる越中の国のエリアは富山県となります。しかしその5年後には、石川県に併合される事になりました。この旧富山県は、立山連峰から流れ落ちて来る黒部川や常願寺(じょうがんじ)川といった、大きな川が複数ある地域です。この立山の上流部が、江戸時代の末期に起きた安政の大地震によって大きく崩壊。その崩れた土砂が川の上流をふさぎ、ある時一気に流れ落ちて来る、いわゆる「山津波」によって、下流周辺の住民は深刻な被害を受ける事となりました。
そして、堆積した土砂で川底が極度に高くなる事によって、黒部川や常願寺川は洪水が起きやすい「暴れ川」に、その姿を変ぼうさせてしまいます。記録によると、常願寺川で起きた洪水は、平安時代から幕末までの1060年間で約50回に過ぎなかったのが、明治から大正のわずか60年間で、同じ約50回の洪水が起こるようになってしまったのです。
こうした、住民個人の力ではどうする事も出来ない洪水を抑える治水対策こそ、まさに住民が納める税金を使って対応すべき課題です。その意味で、旧富山県の人たちは、自分たちが納めた税金を治水対策に優先的に使ってほしいという思いを強く持っていました。しかし、旧石川県の人たちからは道路建設を求める声が強く、少数派である旧富山県の人たちは、自分たちが納めた税金の使い方に強い不満を持つようになりました。こうした旧富山県の県民大衆の切実な思いに基づいて、米澤たちによる分県運動が行われるようになったのでした。
【 若き日の米澤紋三郎(中央)と入江直友(右)米澤記念館蔵(撮影:筆者)】)
米澤は江戸時代の終わりに、現在の富山県入善町(にゅうぜんまち)の大地主であった米澤家の次男として生まれました。次男のため一旦は他家の養子になりますが、兄の8代目紋三郎が急死したため、9代目紋三郎として家を継ぐ事になりました。そして米澤は、地域に大きな責任を持つ大地主の当主として、その頃盛んになっていた自由民権運動に参加して行く事となります。一方明治政府は、こうした自由民権運動の高まりを受けて、国会を開設する事を表明。これを受けて、東京では板垣たちが自由党を結成します。
そして旧富山県でも、高岡市を中心とする県西部で、稲垣示【 いながき しめす:富山県の自由民権運動家。米澤とも親交が深かった 】たちが北立(ほくりつ)自由党を結成。これに対して富山市を中心とする県東部では、米澤や入江直友【 いりえ なおとも:富山藩の藩校広徳館で米澤と共に学ぶ 】などが、「富山県の政治は富山県民で治めてゆく」という趣旨の下に、越中自治党を結成します。その後、越中自治党は発展的に解消し、県西部の仲間たちも加えて越中改進党が結成されたのでした。
【 分県を求める建白書 米澤記念館蔵(撮影:筆者)】
その後米澤たちは、分県を求める運動を進めて行きます。そして、県内の仲間たちと富山市に集まって分県について討論し、政府に対して分県の請願を行なうことを決定。さらにその場で行なわれた投票の結果、米澤と入江が代表に選ばれて上京する事となりました。それから米澤は、政府に提出するための建白書を書き上げます。その建白書の内容は、「旧富山県と旧石川県は地理も風俗人情も大きく異なっている。旧石川県人は道路を急務とするが、旧富山県人には何の利益も無い。旧富山県人が必要とする堤防は、旧石川県人には無用である。このように、一方の益は一方の害になってしまっているのだ」という地元の実情を説明した上で、分県の必要性を熱く訴えるものでした。
この建白書に約1000名の署名を添えて政府に先に送った上で、米澤と入江は上京します。この時米澤は弱冠25才。若き情熱と熱い愛郷心をひっさげて、岩倉具視【いわくら ともみ:公家出身の政府の中心人物】や山縣有朋【やまがた ありとも:総理大臣を二度務める陸軍のドン】といった政府の高官に直接会って、分県の必要性を必死に説いていきました。これに対して岩倉は、茶菓子などを出してくれた上に、地元の政党の状況を聞くなど丁寧な対応をしてくれたと、米澤は後に語っています。
【 面談日を伝える岩倉具視からの手紙 米澤記念館蔵(撮影:筆者)】
実は政府は、自由民権運動が盛り上がっている地方の政治情勢を安定させるために、府県の配置の再検討を始めていました。特に石川県では、県会で旧富山県の県議と旧石川県の県議の意見が激しく対立している事実をつかみ、石川県に実情調査のために職員を派遣します。そして、「越中(旧富山県)は大きな川が多く、民力はその負担に耐えないので補助が必要である。能登や加賀(旧石川県)とは状況が異なるので、分県が適当」という報告が、その職員から上げられていたのです。こうした状況の上に、米澤たちの熱意あふれる活動もあって、その翌年に富山県の分県が決定されたのでした。
そして、富山城址に県庁が設置され、県会議員選挙が行われて米澤も当選します。こうしてスタートした新たな富山県政では、県内を3つの治水区に分けて土木出張所を置き、治水に大きな力を注ぐ事になりました。また、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケを招いて、河川の調査を依頼します。その河川の一つである常願寺川を、富山市の河口から立山の源流部まで登って調査したデ・レーケはその急流に驚き、「これは川ではない、滝である」と言ったと伝えられています。そうした丹念な調査の結果、上流部で崩れた土砂の流失が洪水の原因である事を、デ・レーケは明らかにしました。
【 現在の黒部川 (撮影:筆者)】
このような洪水の原因には、現代で言う砂防(さぼう)ダムで対応するのが有効で、デ・レーケも京都府でそうした工事を行なった実績がありました。しかし立山では、京都よりずっと大規模な砂防工事が必要となるため、当時の技術や国の財政では不可能だとデ・レーケは考えました。そこでデ・レーケは、常願寺川の下流地域での河川改修を計画します。
しかしその改修計画でも、当時の富山県の年間予算のおよそ2倍もの費用が必要でした。それに対して富山県は、政府の補助を得た上で県の災害復旧予算の75%を投入して、この改修事業に取り組む事を決意します。こうして、日本で最初の近代工法による本格的な治水工事が、富山の地で行われる事となりました。そして、入善町を流れる黒部川など他の河川でも、こうした治水対策が県民の納めた税金を使って、長い時間をかけて行われていく事となったのでした。
【 入善町役場前にある「分県の父」米澤の銅像 (撮影:筆者)】
このように、「納税する者が、税金の使い方を自分たちで議論し、自分たちで決めていく」ために、若き米澤たちは分県運動にチャレンジしました。こうした、地方の自立のための挑戦の先頭に立って行動した米澤。現在の入善町の役場前には、「分県の父」とたたえられた米澤の銅像が立っています。
若き米澤たちが持っていた精神を再び取り戻し、地方が自ら考えて行動し、そして自立していく。そうする事によって、多くの地方が現在直面している高齢化や人口減少という課題を、自らの力で乗り越えて行こうとする気運が、再び湧き起って来るのではないか。「分県の父」であり「分権の父」でもあった米澤の、真摯に真っすぐ前を見つめるまなざしから、そのような未来への希望を感じさせられた次第です。
【 中村英一 自由民権現代研究会代表 】