自由民権運動の壮士たち 第3回 獄中から無罪を勝ち取り 初めての平民出身市長になった男 佐治 幸平(福島県)


【 佐治幸平 『Wikipedia』より 】

 

土佐の板垣退助(いたがきたいすけ:自由党のリーダー、後に内務大臣も務める)たちに
よって民選議院設立建白書が出されたことを先がけとして、自由民権運動は始まりました
。この板垣率いる「西の土佐」に対して「東の福島」と呼ばれるほど、河野広中(こうの
ひろなか:自由党の幹部、後に衆議院議長も務める)率いる福島県は、自由民権運動が盛
んな地となっていました。この盛んだった自由民権運動を弾圧すると共に、大型土木事業
を進めるために、福島県令(現在の県知事)として福島県にやってきたのが、前任地の山
形県で「土木県令」と呼ばれた三島通庸(みしま みちつね:後に警視総監として、自由民権家を東京から追放する保安条例を実施)でした。

 

【  三島通庸  『国立国会図書館 近代日本人の肖像』より  】

 

三島は、会津地方での道路拡張計画を企てます。四方を山に囲まれた会津からは、新潟、
山形、栃木の三方面に通ずる街道がありました。このいわゆる三方道路を、車や馬が通れ
るように全長約210キロにも渡って道路の拡張などを行なうという大規模な計画でした。三島はまず、会津地方の六つの郡の郡長を集めて、六郡の連合会議を開かせます。その連合会議の場では、①15才以上60才以下の男女は毎月1日2年間、道路工事の労働に参加する。②労働できない住民は代わりにお金(代夫金)を払う。③国の補助金は26万円(全体予算の約半分)。工事の手順は後に決めていく、といった説明がなされました。

 

【 会津三方道路図 『会津若松市史』より  】

 

連合会議では、①道路への住民の強い希望はある。②国の補助金がそれだけあれば、住民
の負担はそれほど大きくない。③工事の手順は後に議論すればいいなどと考えて、計画に
同意します。しかし、住民の同意を得た形を整えた三島はその内容を反故とし、全体予算
48万円、国の補助金は会議での説明の半分以下の9万8千円のみ。残りの38万2千円は全部住民の負担。工事の手順も一方的に決めて、計画を進めていきます。そして工事が始まっていない段階から、県は代夫金の取り立てまで始めたのです。

こうした計画の進め方に対して、会津全域で住民の不満が広がって行きます。そして、宇
田成一(うだ せいいち:会津自由党の指導者)などの民権家たちが住民の不満を吸い上げ、工事反対運動を組織化して行きます。こうした民権家の動きに対して三島は、自ら会津を訪れて旧会津藩の士族たちと会い、民権家たちに対抗する勢力を作ることを求め、資金の援助を約束します。そして、日本立憲帝政党が結成されて、工事反対運動への妨害活動が始められました。

 

【 佐治幸平 『会津高田町誌』より 】

 

こうした状況の中で、大沼郡高田村(現在の会津若松市)の21才の若者だった佐治幸平
は、「六郡連合会議の議員は人民一般の公選で選ばれていないので無効であり、無効な議
員による決議は無効だ」とする意見書を郡長に提出します。そして、同世代の若者3人で
70名以上を集める演説会を開くなどして、地元の自由民権運動のリーダーとして活動して
行きます。

 

一方、道路工事費の高田村での割り当てを決める村会が開かれますが、「高田村の村民は
、六郡連合会議の議員を選ぶ選挙に参加していないので、そこで決議された道路工事計画
に服従する義務はない」として、工事費の割り当て案を否決してしまいます。

 

【  旧高田村に立つ佐治幸平の顕彰碑(撮影:筆者) 】

 

このように高田村などでの工事反対運動が盛り上がる中で、宇田たちは六郡連合会議の臨
時会の開催を郡長に請求しますが、郡長は拒否。その夜、旅館に泊まっていた宇田たちを
、立憲帝政党のメンバーが襲撃する暴力事件が起こります。以後、臨時会を求める活動は
、帝政党の暴力や警察の弾圧を受けてつぶされ、運動は絶望的な局面に追いこまれます。

しかし実際に工事が開始されると、工事現場に移動するだけで往復4日間かかる現場もあり、冬の積雪で工事が中断している間も代夫賃が請求されるなど、工事に反対する農民の思いは増々強いものとなって行きます。こうした状況の中で、工事に反対するための新たな方法が求められることとなりました。

 


【  久山寺 (撮影:筆者) 】

 

宇田や佐治たちは、県令や郡長を相手にした訴訟を起こすという新たな運動方針を立てま
す。そして、1か月かけて農民約4000人を組織化し、その代表約70人が米岡村(現在の喜
多方市)にある久山寺に集まり、農民たちの権利を回復するための権利回復同盟を結成。
この同盟では、1人10銭を払って同盟者となり、組織の長として総理と副総理、その下に6人の訴訟委員を置くとされて、佐治もその訴訟委員に選ばれました。

 

そして、①まずは訴訟によって農民の権利を回復する。②六郡連合会議を再び開催して、
民主的な手続きに基づいて工事計画を改正する。③その上で、民意にそったやり方で道路
工事を行なっていく、という画期的な方針が打ち立てられます。県の横暴なやり方に単純
に反対するだけではない、農民大衆の道路への希望に基づいて、民主的にその希望を実現
して行くという確固たる方針の下で、同盟への賛同者は一挙に7000人以上に拡大します。こうして、農民大衆としっかり結びついた運動は、幅広く力強いものへと急速に成長して行ったのでした。

 

【  農民に対する催促状:福島県立博物館所蔵  】

 

そして、4000人以上もの原告として、若松裁判所に訴状が提出されました。同時に、多くの農民が、裁判が確定するまでは労働に応じないし、代夫賃も払わないという届け出を出すなど、運動は大衆化と共に多様化して行きます。このように大衆的に盛り上がった運動に対して、三島は弾圧を決意。県の高官に、巡査約400名と立憲帝政党員を従えさせて会津に派遣します。そして県の高官は、代夫賃を納めない者にはその財産を公売にかけると脅迫するように、郡長たちに命令します。

 

そうした脅迫に屈しない農民に対して、ある村では郡長自らが指揮しての強制的な押収が行われました。これに対して、財産の保護を求める訴えを起こした民権家2人が、官吏侮辱罪の容疑で逮捕されてしまいます。そして、この2人が若松警察署に移送されると聞いた農民約2000人が抗議のために集まった様子を見た警察は、移送を断念。しかし同時に、同盟の指導者たちを逮捕することを決定。同盟が1人10銭の同盟費を集めたのは詐欺だとして、宇田や佐治たちが逮捕されることとなってしまいました。

 


【  弾正ヶ原に立つ自由民権運動の記念碑 (撮影:筆者) 】

 

この不当逮捕に抗議するための集会が、約3000名の農民を集めて、弾正ヶ原という原っぱで開かれます。この場で、警察署に代表を送り、逮捕の理由を正すと共に釈放を要求することが決められて、集会は解散されますが、代表と共に数多くの農民が喜多方警察署に押し寄せました。そして、代表による交渉がなされている最中に、警察署に石が投げられたのをきっかけに、警官たちが刀を抜いて農民たちに襲いかかってきたので、農民たちは撤収しました。これが喜多方事件と言われるものです。

翌日警察は、権利回復同盟の本部に踏みこみ、40人以上の同盟員を逮捕。東京にいた県令
三島は、「この機会に関係する者をすべて逮捕せよ」との指示を電報で送ります。そして
、喜多方事件には全く関わっていない河野などを含む1000名以上の逮捕者が、会津だけでなく福島県全域で出されることとなりました。これが福島事件と言われるでっち上げ事件です。

 


【 河野広中の肖像写真  『国立国会図書館 近代日本人の肖像』より 】

 

そして、喜多方事件で警察署に押し寄せた農民たち約320名は、軽微な犯罪として罰金刑
で放免。一方、佐治たち会津の運動の指導者たち約30名は、農民たちを扇動したとして有
罪判決を受けますが、大部分は上告して無罪を勝ち取りました。佐治もその1人で、その
理由の一つが、喜多方事件が起きた時には警察署に拘留されていたというアリバイがあっ
たから(笑)、とも言われます。

 

また、河野や宇田たち約60名は内乱を陰謀した国事犯として、東京へ移送されますが、宇
野たちは証拠不十分で無罪放免となり、河野たち6名のみが有罪とされました。無罪を勝
ち取った宇田や佐治たちは、権利回復のための新たな訴訟を起こそうとしますが、三島は
官吏侮辱罪で宇田たちを逮捕させるといった弾圧を執ように続けました。そして、権利回
復同盟による訴訟運動は断念せざるをえなくなり、工事が粛々と進められることとなって
しまったのです。

 


【 警察署跡近くに立つ喜多方事件の記念碑  (撮影:筆者) 】

 

しかし、佐治はその後福島県会議員となり、会津中学(現在の会津高校)や福島県農工銀
行の設立に貢献。また、第4回衆議院選挙で立憲改進党から出馬して当選した後には、会津地方に鉄道を引くための民間会社である岩越鉄道株式会社の発起人となり、岩越線(現在の磐越西線)を開設させるために尽力します。そして、若松市(現在の会津若松市)の初めての平民出身の市長となって、会津高等女学校(現在の葵高校)や会津工業学校(現在の会津工業高校)の設立に貢献しました。

 

【  現在の会津工業高校 (撮影:筆者) 】

 

一方、喜多方・福島事件での弾圧を経験した一部の民権家たちは、暴力で政府を転覆しよ
うと過激化していきます。そして事件から2年後、「自由の公敵たる専制政府を打倒する
」と宣言し、三島の暗殺などを企んで、栃木や茨城の民権家たちと共に茨城県の加波山(
かばさん)で挙兵するという加波山事件が起こされました。その2か月後には、埼玉、群
馬、長野県という広いエリアで、1万人もの参加者たちが組織的な武力で蜂起した秩父事
件が起こされます。いずれも政府によって鎮圧されましたが、こうした暴力で政府の打倒
を目指す直接行動は激化事件と呼ばれ、その後、自由民権運動は一時停滞していきます。

 

そして、喜多方・福島事件はこうした激化事件の初期のものであったとされてきました。
しかし喜多方事件は、佐治や農民たちの権利回復同盟による合法的な大衆運動の中で生まれた偶発的な事件であり、福島事件は、自由民権運動の弾圧を狙った三島の指示に基づく
、でっち上げ事件に過ぎません。したがって、運動を担った側の視点から見れば、加波山
事件や秩父事件という激化事件とは全く性質の違うものだったと、言えるかと思われます。

 

【  弾正ヶ原 (撮影:筆者) 】

 

歴史は光の当て方によって、その見える姿が全く違ったものになってしまいます。この会
津の地で取り組まれた会津三方道路建設工事反対運動(道路反対ではない)は、農民大衆
の意志に基づき、民主的な道路建設工事を実現しようとした運動でした。したがって、「喜多方事件は激化事件や暴力事件などではなく、あくまでも合法的で大衆的な運動の中で起きた偶発的な事件であった」。そのように評価をし直していくべきだと、磐梯山が見える弾正ヶ原に立って思った次第です。

 

【 自由民権現代研究会代表 中村英一 】