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1876 植木枝盛「政府と人民の関係は親と子の関係に似ている」(原題「政府の人民におけるはなお父母のその子におけるがごときもの有るを論ず」)


政府と人民の関係は親と子の関係に似ている

(原題「政府の人民におけるはなお父母のその子におけるがごときもの有るを論ず」、1876(明治9)年)

原文:植木枝盛  現代語訳:山本泰弘

 人民にとっての政府とは、子にとっての父母のようなものである。国民の中には文明開化したものもいればそうでない者もいる。人の子にも成年を迎えた者もいれば幼い子もいる。それらを世話するというのも共通しており似ている。

 幼い子は知恵がついておらず知識もわずかであり、まずは父母に養われて、まだ自立していない間は父母は特権として自分の意思で子に指図や制限をし、言いつけて聞かせることができる。だいたい人は生まれたときから自由が利くものではなく、幼子は歩くことすら自由にはできないではないか。しかしそんな子が成長して自立し、父母の養いを受けなくなったならば、自分で家事を行い、親と互いに余計な手出しをしないように気をつけるべきである。

 人民にとっての政府もつまりはそういうことだ。人民が未開であるときはただこれを保護するのみならず、成長させるための手を尽くさなければならない。この段階では、政府は独断的に政策を行い、そこに人民を関与させる必要はない。なぜなら未開の人民は知識が乏しくものごとの是非や損得を判断できないために、国民的議論をしてもかえって公平ではない。それでどうやって政治を議論し法を定めることができるだろうか。それが、政府が独断的に政治を動かさなければならない理由だ。

 しかし人民が開化のレベルに達したら、反対に、人民に十分な権利を与えなければならない。もしすでに開化したのに以前の法を改めず、政府が権力を独占したままではその害は少々では収まらない。この段階で議会を設立して公の議論を行い人々の知恵を集め、政治を公正にしていかなければならない。

 今わが国は国民議会をめぐる論議が世をにぎわしている。国会開設に賛成する者はこう主張する。「わが国の人民はまだ開化しきったとは言えないが、未開だと言って国会開設を先延ばしにしていたら何年待ってもそのタイミングは来ない。人民が無知なのは政治に関与していないためであるから、政治に関与させれば、国民としての逃れられない責任から自ら知識を広げていくことになるだろう。一度国会を開いてもその効果が出なければ、そのときは閉じてしまえばよいだけの話で、何をためらうことがあろうか」と。

 これは根本を知らない主張である。そもそも議会とは市民の「智」を集めるところであって、民衆の「思(感情)」を集めるためのものではない。そして「智」の源は教育にある。要するに、まず教育があってこそ知識が生まれ、知識があってこそ議会があるのだ。前述の論者はなんと薄っぺらい思考だろうか。効果がなければ国会を閉じればよいなどというのは全く国家をもてあそぶ考えであり、例えるなら幼子に一家の管理を任せるに等しい。その行く末は、国全体に誤り・思い違い・衰退・破壊が及ぶという悲劇である。

 何を誤りと言うのか。才能の無い人は才能ある人を見分けられない。才能ある人でなければ才能ある人を見分けられないのだ。昔から、自分と孔子との間には分厚い壁があり、遠く隔てられているから凡人には孔子の真の偉大さを知ることができない、と言われるようにだ。だから、未開の人民に選挙で議員を選ばせたらかえって、優れた人は選ばず凡人を選んでしまうはずだ。ということは国会に有象無象が集まることになり、公の議論をしてもまともなものにならない。そんなまともでない議論によって政治を行えば、道を誤らないわけがなかろう。

 何を思い違いと言うのか。国会が愚か者の集合であれば、各自が本来の役目などわきまえず自身の利益を追求して公の利益を忘れ去ってしまう。これを思い違いと言ったのだ。

 何を衰退・破壊と言うのか。未開の人民は先を見据えて深く考えることをしないため、時や場合や時代の空気を考えずに暴れて感情をぶちまけ、結局は偏って歪んだ混乱状態に陥るであろう。これだから、衰退・破壊から逃れられないというわけだ。

※政府と人民の関係は、親と子の関係とは根本から違うのは言うまでもない。この文ではただ、君主の独裁国において政府が人民を指導して自治の精神を起こさせ、憲法を定めて民主政治へと改めるための道を開く過程について、それが親と子の関係に似るところがあると言ったまでである。

 

〔底本:『植木枝盛集 第三巻 新聞雑誌論説1』〕