自由民権Picks

1877 植木枝盛「世の中に『良い政府』など無いのだ」 (原題「世に良政府なる者なきの説」)


世の中に『良い政府』など無いのだ

(原題「世に良政府なる者なきの説」、1877(明治10)年)

原文:植木枝盛  現代語訳:山本泰弘

 人民には政府を「良い政府」にさせる道はあるが、政府がもとから「良い政府」であることはない。

 いにしえより人民はみな「良い政府」を望み、誰々の政府は善良だった、何々国の政府は悪政だ、政府がみなこうなってくれたらいいのに、国家の君主にはこんな人が必要だ、あいつは暴虐だ、……などと言ってきた。これはつまり、良い為政者を望みはしても、実際に良い為政者を得る方法や為政者を善良にする方法を知らないということだ。ああだこうだ評価する人を知恵ある者とみなしてはならない。

 そもそも政府がもとから「良い政府」であることはない。人民が「良い政府」にしていくしかないのだ。私がこう断言すると、そんなわけはないと疑う人もいるだろう。疑うのも無理はないが、この説にはちゃんと理屈があるのだ。

 それを説明するには第一に政府と社会の成り立ちを語らなければならない。中には社会の成り立ちを家族のように考え、政府と人民とを親子としてみなす者がいる。しかし決してそうではない。政府と人民とはただ、約束をしたことにより成り立つもので、生まれついての関係ではない。商店に例えれば、主人と番頭の関係であり、主人とその実の子の関係ではないのだ。

 親子の間には生まれついての愛情というものがあるが、政府と人民とは利害が異なれば必ず利益を自分のほうに奪い、相手を倒すだけの力を持てば相手を駆逐し、利用できるときは相手を利用する、とても油断ならない関係である。

 考えてもみるがよい。いにしえより政府のありようは進歩し、法律は歴史的には寛容になってきている。政府が民に権利を与え自由を許すというのは、それが正しいからとして公平で謙虚な心で行ったわけでは決してない。そうしなければすぐさま人民による政変が発生し、政府が打撃を受けることになると思って仕方なく行ったのである。

 最近の例で言えば、日本で今年の春、地租(土地税)が0.5%安くなり、また近々税を米でも金でも払えるようにする法律を作るとの噂があるが、これも昨年の暮れに各地の百姓が一揆を起こすなどの出来事がなかったら、そうはならなかったに違いない。一揆の形でも民が抵抗したことの効果に他ならない。

 西洋を見ればギリシャ、ローマ、英国などにおいても、はるか昔は人民が自由を得ることはなく、君主は人民を虐げて自らの自由と安楽を極めてきた。その有様は例えて言えば、人民は小鳥の群れであり政府は鷹の群れである。小鳥は鷹に攻撃されたり捕食されたりして苦しんでいるところに、「鷹の群れより一層強力な鷹の王が現れてくれれば、強い鷹を抑えて自分たちを救ってくれるはずだ」と思っていたところ、いざ鷹の王が現れたらそれがなおさら暴虐を尽くし、小鳥はその凶悪な嘴や爪を必死に防ぐしかない――といったようなものだ。

 ただそこで国を愛し民を憂う者たちは、これは君主の権力に限界がないためだと考えた。だからこれからは、君主が人民を治める権力に限界を定めようと。この考え方が「自由(国家からの自由)」の理論である。

 米国人民を見るがよい。米国の独立は、アメリカを植民地支配していた英国が望んだものではない。

 英国人民を見るがよい。歴史に残る「マグナ・カルタ」は当時の英国王ジョンが自ら望んで成立したものではない。

 先進諸国を見るがよい。政府が進んで君主政を廃止し共和政を始めた国があるか。政府が自発的に国民の代表による国会を作った国があるか。いずれもその例は全くない。

 これらのような歴史的な動きがなかった国々も、大なり小なり同様の君主と人民の構図があり、自由をめぐる理論は共通だ。一見、誠に慈悲深い君主のようにも思われるが、実態はそうでないという場合もある。

 また、政府については結局、治めた結果を見なければそれがどれほどのものかわからない。だから後の世には結果のよしあしを判断できるが、現在の政府についてはよくわからないはずだ。だからいにしえより(中国の伝説的名君である)文王武王のように、全く良い政府だったと伝えられるが、これも後世から見て善政だったとわかったわけで、当時においては政府の考えや行いを明確に評価することはできなかったはずだ。

 したがって、権力を独占する政府に対してはまず第一に憲法を定めるのが民の自由を保つ道であるが、すでに憲法を定めた国ではその憲法を確実に守らなければならない。

 だいたい人というものは私欲をなくすことはできない。油断大敵という言葉のとおり、人民が政府を信じれば政府はそれを利用し、人民が政府を厚く信用すれば政府はますます付け込む。もし、どんな政府であっても「良い政府」だと信頼して疑うことなく、監視することなければ、必ず政府は大いに人民に付け込んで、どんな悪政を働くか計り知れない。ゆえに、世の中にもとからの「良い政府」は無いというわけだ。

 こういうわけで、人民はなるべく政府を監視すべきであり、なるべく抵抗しなければならない。それをしなければ良い政治と良い世の中は決して得られない。もとから明らかに圧制をする政府に対してはなおさらである。

 昔から「習い事は、坂で車を押して登るようなものだ」と言われる。今の時代、自由民権の志士が圧制の限りを尽くす政府に立ち向かうのは、まさにこのことわざのとおり困難なことである。

 はなから断然圧制をする悪の政府と、一見善良のように思われる政府とでは、人民の立ち向かい方も違ってくるが、もとから「良い政府」として安心できるものはあり得ないのだから、絶えず監視し抵抗することを忘れてはならない。

 広い世の中には良い政府も悪い政府もあるが、総じて言えば悪と言わざるを得ない。悪しき政府が多いからだ。人民が政府をたちの悪いものとしてしっかりと立ち向かえば「良い政府」になることもあるだろうが、政府を全く信頼して「良い政府」と思い込めばたいてい悪い政府を出現させてしまう。

 ちょうどこれは人に金を貸すときに、返してくれるか疑わしいものと警戒していれば案外返ってくるが、相手を信用しきって待っていたらかえって戻って来ないことが多いのと同じだ。油断してはならない。日本人は最も気をつけなければならない。これこそが政府を「良い政府」にするための道なのだ。

 諸君が私の言葉を過激だと思うならそう思ってかまわない。そのように思う人にもただ一つ望むことがある。抵抗までしなくても、心に「疑」の一字を常に持ち、政府を信じきることのないように。

 

〔底本:『植木枝盛集 第三巻 新聞雑誌論説1』〕