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1876 植木枝盛「人をサル化する政府」(原題「猿人政府」)


人をサル化する政府
(原題「猿人政府」1876(明治9)年)
原文:植木枝盛  現代語訳:山本泰弘

 人は猿とは違う。当たり前である。猿でもわかる。人と猿とが別々であるのだからそれぞれの生きる道も別々でなければならない。これも当然の理屈だ。ただし、人と猿との違いはどこにあるのかを見極めなければ、それぞれの生きるべき道について語ることはできない。

 人と猿は身体が違うから別か。いや、猿だって両手両足があり、五感も人と変わらず働く。知能に差があるからか。いや、愚かな人間が及ばない賢さを持つ猿もいる。

 ではその違いはどこにあるか。思うに、それは「才徳」である。人の精神には、思考と想像の力がある。猿にはこれらは無い。だから猿は目の前の物事についてちょっとした知恵を働かすことはあっても、自発的に創造や発明はできない。始まりを見て終わりを、終わったのを見て始まりを推察できない。人が「一を聞いて十を知る」ような類推の力は、猿には無いのだ。これは他ならぬ思考・想像の能力が無いためである。

 はるか昔に人は思考・想像の力を身に着け、見聞きしていないことでも自ら発想して物事を始め、実行し、成長させる。日進月歩で着々と発展のレベルを上げる。一方で猿は生まれつき得た本能に任せ、昔も今も、地域によっても違いの無い獣のままである。思考・想像の力が無いためだ。これが人と猿との根源的な違いである。

 人と猿の違いを確かめたところで、それぞれの生きるべき道について語ろう。

 そもそも猿のごときものは自分に思考・想像の力が無いために、思考・想像についてどのような侵害をしようと問題無いはずである。しかし人については話が別だ。人が人であるためには、この思考・想像の力を自由にし、最大限発揮させなければならない。

 思考・想像の力というのは元来、精霊の支配下にあり、秦の始皇帝や漢の武帝の支配力でも制することはできない。しかし思考・想像を直接制することはできなくても、間接的に制する法がある。もし著述・議論の自由を制し不完全にさせてしまえば、必然的に思考・想像の自由も損なわれ完全ではなくなってしまう。なぜなら両者はつながっているからだ。思考・想像は「本」で著述・議論は「末」であり、末を抑えれば本も変わらずにはいられない。だから言論の自由を制すると思考・想像の自由も不十分となるのだ。

 そのような法は猿に対してならば問題無い。しかし人類に対しては思考・想像を完全に自由にさせなければならない。昔も今も世の暴君たる者は、人類の自由を抑圧し、人に対して猿に対する方法で扱うものである。これは、人をサル化する意図と言えよう。ゆえに名づけて「猿人政府(人を猿にする政府)」である。実に憎むべきものだ。日本の国家人民に対する悪業であるのみならず、天に対する大罪である。

 とはいえ君主というものは強大な勢力を有するために、この天の理に反しようが、昔も今も至る国々で猿にさせられた人民は多い。不幸と言わなければならない。しかしこの不幸は暴君の圧政の時代においての話であり、後の時代には多くの国の人民は変革を起こして人本来の生きる道を取り戻し、猿の扱いから脱したのみならず人類史上の英雄として名を残すまでになった。翻って、人を猿にした君主はみな極悪の暴君と称され、猿どころでない地獄行きの運命となった。

 ああ、天下のことは一時には定まらない。世間の諸君は目の前の小さなことに囚われず、必ずや天下・後世を展望して、勇気を奮い力を尽くさなければならない。そう、これは人生に必須の要素である。

〔底本:『植木枝盛集 第三巻 新聞雑誌論説1』〕
(原題は「猿人政府」だが、新聞紙上に「猿人君主」として掲載された。)