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1875 植木枝盛「文明開化の二つの源」 (原題「開化二基」)


文明開化の二つの源
(原題「開化二基」、1875(明治8)年)
原文:植木枝盛  現代語訳:山本泰弘

 文明開化には二つある。一つは国家の開化、もう一つは人の心の開化である。何を国の開化と言い、何を人の開化と言うのか。ここに語ろう。

 国家の開化とは、人間同士の健全な関係を保つ法が適切に調えられることである。他方、人の心の開化とは、個々人の内面に起こる重大な変化であり、他の人間とは関係無い。倫理、科学、文芸、芸術のように、一個人が自らの心を正しくし、知を磨き、情緒を満たすことがその道である。

 これら二つは開化の源であり、「国家の開化という精神が備わらなければ、人の心の開化という魂が生じることはありえない」と言われるのはそのためである。この二つは開化の源であるから、両者を兼ね備えなければ活発に生きることは叶わず、輝かしい人生を送ることはできない。

 とは言っても、人民が「本」であって国家は「末」である。世の中の動きが活発なのに伴って、視野が広がり善良な心を持つ人が次第に増え、やがて意志の力が崇高で敬愛・尊重される人物が続々現れるならば、仮に人間社会を規律する法が大きく不足していても、自らを文明と信じるべきである。他者からは開化した者と評価されるはずだ。

 しかしこのような者でも善と美の極みと呼ぶことはできない。開化の二つの源を兼ね備え、活発に、輝かしく生きてこそ善と美の極みであると言えよう。

 いまだこの論理を知らずに、人民の文明度合いを察することなく、闇雲に立派そうな政策を行い、政府は雲の上から政策を施してやり、人民ははるか下にいて上を眺めてもその出所がわからず、進む方向を見失ってさまようような有様では、仮に人間社会を規律する法が充実したとしてもそれによって開化したと言うことはできない。

 

〔底本:『植木枝盛集 第三巻 新聞雑誌論説1』〕