民権家列伝①植木枝盛(高知/「明治の自主憲法」/J.I.メールニュース)


「明治の自主憲法」

山本泰弘

 今から130年以上前のわが国では、20代を中心とする若者たちが各地で国家ビジョンを論じるチームを結成し、ゼロからオリジナルの憲法草案を書いていた。憲法が、そして若者の政治参加が論じられる世にあって、彼らの歴史ドラマが脚光を浴びないのは実にもったいない。

 明治前期の日本では、少数の権力者による圧政を止めるべく国会を開設し、政府の手から国民の自由を守る憲法をつくろうという国民的ムーブメントが起きていた。世に言う自由民権運動だ。

 その主力を担ったのは、20代を中心とする若者たちである。彼らは地元の町や村で集会を開き、演説やディベートを行い、当時の新興メディアである新聞に投書し、国の将来を熱く語っていた。

 政府からの弾圧を受けながらもその動きは全国的なものとなり、国民の代表が政策を決める国会の開設を要求し、そして国民的議論による憲法の制定が目指された。

 その代表的人物の一人が、植木枝盛(うえき・えもり)だ。土佐に生まれ、少年期から驚異的な読書量と文章量を顕し、20歳で当時の大物政治家・板垣退助のブレーンとして政治グループ・立志社(後の自由党)の主力となる。青年期の写真が残っているが、なかなかのイケメンである。

 彼が書いた憲法草案「東洋大日本国国憲按」は、当時最先端の知見を活かし、基本的人権の保障、立憲君主制、連邦制などといった国家像を描く。現代にも通用するとして評価が高い。

 わが国にまだ憲法の無かったこの時代は、若者がゼロからオリジナルの憲法草案を書いていたのだ。彼のみならず、各地の有志がつくった憲法草案が残されている。西多摩の山奥の集落で発見され、近年天皇皇后両陛下も見に訪れた「五日市憲法」が有名だ。

 今憲法論議といえば、条文の文言や解釈、あるいは戦後史ばかりを取り沙汰するマニアックで近寄りがたいものになってしまっている。憲法は国民が書くものであり、わが国では明治の世に植木ら在野の若者たちがそれに挑んだ歴史がある。しかも彼らは、格式張った条文を綴るだけでなく、現代の池上彰よりも痛快に政治課題を語り、SEALDsより気の利いた歌やキャッチコピーで無関心層を引きつけることに成功した。

 憲法論議が加熱し、かつ日本国憲法70周年を迎えようとする今、この歴史ドラマを呼び覚ますことが日本社会には必要だ。変革の時代に求められるのが坂本龍馬なら、論憲の時代に求められるのは植木枝盛。「憲法書いてみた」とでも言うような異才の生き様に刺激され、憲法談義が好奇心とロマンをもって国民的に楽しまれたら、実に面白い。

(2016-09-15 構想日本メールマガジン「J.I.メールニュース」採用)