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『東京専門学校の研究―「学問の独立」の具体相と「早稲田憲法草案」―」  著 真辺将之(まなべ・まさゆき)早稲田大学文学学術院准教授


 

板垣退助たちが民撰議院設立建白書を提出してから(1874年)、国会の開設を求める自由民権運動は始まりました。そうした状況の中で明治政府は、政府高官に憲法に関する意見書の提出を求め、それをもとに政府の方針を決定することとしました。こうした政府高官の1人だった大隈重信は、民撰議院設立建白書提出の前年に参議兼大蔵卿という政府高官となり(1873年)、通貨の統一、会計検査院の設置、国立銀行制度の創設など、日本を近代国家にするための政策を実現していきました。 

 
 

そして、日本をイギリス流の立憲国家にすることを目指していた大隈は、イギリス流の議会政治・政党政治を求める意見書を提出します。しかし、自由民権派の主張にも重なる大隈の考えは急進的であると見なされて、大隈は伊藤博文などと対立していくこととなります。そうした中で浮上した「北海道開拓使官有物払下げ」問題によって、政府への国民の批判は高まり、自由民権運動は最高の盛り上がりを見せることとなります。この「北海道開拓使官有物払下げ」に元々反対していた大隈に対して、情報を外部に流したのではないかという噂が流れるなどして、大隈は政府部内で孤立します。そして、「官有物払下げの中止」、「10年後の国会の開設」が発表されるとともに、大隈は政府から追放されてしまいます(明治一四年の政変)。 

 
 

大隈の追放とともに、会計検査院検査官・小野梓、駅逓総監・前島密(後に「郵便の父」と呼ばれる)、統計院書記官・犬養毅(後に第29代内閣総理大臣)、統計院書記官・尾崎行雄(後に「憲政の神様」と呼ばれる)といった、大隈派とみなされた若手官僚たちも次々と解任されて、野に下ることとなりました。そして明治政府は、いわゆる「薩長藩閥」の独壇場となり、大隈たちが目指したイギリス流の政党政治も否定されて、ドイツ流の君権主義的な憲法を制定する路線が決定されます。 

 

しかし大隈たちは、在野の立場から、イギリス流の政党政治を日本で実現していくことを目指して、政党(立憲改進党)と学校(東京専門学校)を創設します。「右手に政党、左手に学校」といわれた、この立憲改進党と東京専門学校(後の早稲田大学)の創設の実務を、中心的に担ったのが、大隈とともに野に下った小野梓でした。 

 
 

その小野梓は、彼を慕う東京大学(後の東京帝国大学)の学生7人と鷗渡会という団体を作っていました。この鷗渡会の若者たちが、東京専門学校の中心を担うようになります。初代学長を務め、後の大隈内閣で文部大臣も務めた高田早苗。第二代学長を務め、東洋経済新報第二代主幹を務めた天野為之。そうした若者たちの中に、後に「天下の記者」と呼ばれる山田一郎がいました。この山田一郎は、東京専門学校の初期において政治学を教えていたのですが、その時に生徒たちと「憲法私会」という会を作って、独自の私擬憲法草案を作っていたのでした(1883~1884年)。 

 
 

この私擬憲法草案の存在は研究者の間でも知られておらず、私擬憲法草案のほとんどが収録されている専門書にも、研究者がまとめた私擬憲法の一覧表にも、この私擬憲法草案は載っていませんでした。研究の末、この私擬憲法草案の存在を明らかにした筆者は、早稲田という地で、早稲田大学の前身・東京専門学校の学生によって討議されたことから、この私擬憲法草案を「早稲田憲法草案」と名づけています。この早稲田憲法草案は、山田一郎と4名の学生の討議によって作成されたのですが、その5名はいずれも、19才から24才までの若者たち!自由民権運動に参加していた、当時の若者たちの息吹が感じられる思いがしました。 

 
 

この本では、この早稲田憲法草案の条文だけでなく、その若者たちが討議した内容も掲載されていて、私擬憲法の作成過程について理解することも出来るという、とても貴重な内容となっています。また、創設当時の東京専門学校の様子や気風なども説明されているので、自由民権運動に関心のある方のみならず、愛校心あふれる早稲田大学OB・OGの皆さん方も是非ご一読の程を! 

 
 

※①大隈重信の写真 ②早稲田の大隈講堂の写真 ③本の写真