自由民権選書1「自由民権運動史への招待」 著者:安在邦夫 早稲田大学名誉教授
「自由民権運動と聞いて思い浮かぶ人物は?」という、ある高校の先生が生徒に対して行ったアンケートでは、「板垣退助」という答えが圧倒的だったそうです。これは高校生だけの話ではなく、多くの一般の人においても同様なのではないでしょうか。ほとんどの人が、「板垣退助」という個人名や、「ミンセンギインセツリツ何とかを出した」という出来事として記憶しているのでないかと、思われます。
少し興味を持って調べだしたとしても、「民撰議院設立建白書」やら「国会期成同盟」、「私擬憲法」、「激化事件」、「三大建白運動」、「大同団結運動」やら、いろいろ出てきて何がなんやら、非常に分かりにくい・・(笑)。そんな人にでも分かりやすい、自由民権運動を知るための格好の入門書がこの本です。
筆者によると、20年近く続いた自由民権運動は、4つの期間に分かれていたのだといいます。日本で初めて国会を開くことを求めて、板垣退助たちが「民撰議院設立建白書」を明治政府に出した時から、自由民権運動は始まります。その要求を明治政府に拒否された板垣たちは、出身地である高知県に戻って、「民権結社」と呼ばれる組織を作って運動を広げていきます。
そうした組織が高知県や福島県などの各地で作られていく一方で、明治政府に不満を持った士族たちによる武装反乱が、各地で起こされます。その士族による反乱の最大のモノであった西南戦争が鎮圧されて、士族の反乱の時代は終わり、言論による自由民権運動に多くの国民のエネルギーが注がれることとなります。こうした民撰議院設立建白書の提出から西南戦争終結までの時期が、自由民権運動の生成期です(1874~1878年)。
そこから、運動は全国に広がり全国各地で民権結社が作られるようになり、国会開設を求める大きなうねりは「国会期成同盟」の結成に至ります。「国会期成同盟」に集った民権活動家たちは、それぞれが自分たちの手で憲法草案を作ることを約束し合います。その結果、各地で「私擬憲法」と呼ばれる憲法草案が作られることとなりました。
こうした国会の開設と憲法の制定を求める声が大きくなる一方で、「北海道開拓使官有物払下げ事件」という政府と企業家とのゆ着が疑われる事件が起きて、政府を批判する声は一段と高まることとなりました。こうした国民的な声に押されて、政府は10年後に国会を開設することを、約束せざるを得なくなりました。ここまでが、自由民権運動の高揚期です(1878~1881年)。
そして、10年後の国会開設をにらんで、板垣退助をリーダーとした自由党や、大隈重信をリーダーとした立憲改進党といった政党が結成されるようになります。この時期に、自由党の遊説活動をしていた板垣が暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」という名言を吐いたといわれ、自由という言葉が大流行することとなります。
その一方で明治政府は、伊藤博文をヨーロッパに派遣して憲法制定の準備を進めるとともに、自由民権運動を取り締まるための法制度を整え、運動に対する弾圧を強めていきます。こうして民権活動家らが大量に逮捕される「福島・喜多方事件」のような、「激化事件」が各地で起こっていくこととなります。そして、7名もの死刑者を出した最大の「激化事件」である「秩父事件」などが起こる中で、勢いが衰えていった自由党は解党することとなります。しかし、立憲改進党は危機を乗り越えて存続していき、多くの民権活動家も運動を継続していきました。ここまでが自由民権運動の展開期です(1881~1884年)。
こうして停滞した自由民権運動を立て直すために、「小異を捨てて大同団結すべき」とする「大同団結運動」が興ってきます。そして、「地租の軽減、言論集会の自由の獲得、不平等条約の改正」を求める「三大事件建白運動」が大きく盛り上がることとなります。これに対して政府は、多くの民権活動家を東京から追放します。
そして政府は、秘密裏に作った大日本帝国憲法を発布したのですが、翌年行われた衆議院選挙では、民権派が過半数を獲得します。「民党」と呼ばれた民権派は、「経費節減」「地租軽減」を求めて、国会で政府と激しく対立していきます。しかし、天皇から「和衷協同せよ」という詔勅が出されたのを契機に、民党と政府との妥協が図られるようになり、自由民権運動の大きな流れは収れんしていくこととなりました。ここまでが、自由民権運動の収れん期です(1884~1893年)。
こうした自由民権運動の歴史の概略だけでなく、その歴史に対する様々な考え方についても幅広く、かつ分かりやすく書かれています。まさに自由民権運動を知るための格好の入門書であり、それを学ぶ上での必読の書であると思う次第です!